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投稿者: SuperVisor
3月になった。人事異動の内々示があった。公表は3月16日である。出る人、来る人悲喜こもごもの気持ちもあるだろう。国家公務員の2012年4月から2年間の7.8%の給与削減もある。経済的な先行きもままならず、今年1年も試練や困難な年が続くのかもしれない。
さて、来年度に向けて視覚障碍者の自立訓練の充実を柱に戦略を練っているところである。私の職場では年間延べ訓練生は120名となる。平均訓練日数は3ヶ月。従って40名の人が毎年新たに訓練を受けられるのだが、最終的には25名前後の訓練をすることになる。なので15名できていない。昨年は16名だったので、実質9名増ではあるが、まだまだである。
では、実際に1年間にどれだけの人を訓練できるだろうか?試算した。最大で80名。通所訓練、訪問訓練、短期集中訓練を上手く組み合わせればできる。では、なぜ、80名の訓練を実施することができないのだろうか?
一つには、視覚障害の人たちの関心を引くようなメニューでないことがあげられる。更に、訓練したいときにすぐできないこともあるだろう。いや、それ以上に訓練を請負う側の気力の問題だと思うのである。まずは、できるところから始めることとして、来年度は40名を目途に新たな方々に、訓練を実施することとして実現可能な方策を詰めている。最終的には、実質、年間80名の新規利用の方々を訓練可能にするために知恵を絞っている。
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投稿者: SuperVisor
阪神大震災から17年。職場でその話となった。震災後に博多から神戸に支援のために派遣されて出会った人たちのことを、記憶の断片をたどりながら話をした。昨年の3.11の東日本大震災時には関東にいて、その揺れの尋常ならざることに驚いたものの、どれほどの災害かを想定すら出来なかった。テレビの画面から次々に流れてくる映像に息を呑んだ。同時に想像力の貧弱さを嘆いた。
話をしていた人が、東日本大震災での被災視覚障害者支援に赴いた専門家たちが、避難所等を巡り歩いても視覚障害者を見出すことが困難であったこと、トイレや配給の際に大変な思いをしていたことをが把握しにくかったことなどの話題を提供してくれた。その話を聴き頭の中によぎったのは、阪神大震災で得た知見が十分に生かされていないことだった。17年前の震災を忘れたわけではない。けれど、日々の生活の中であのとき感じたリアリィティは薄れていて、断片化されていることに哀しみを感じた。
昨年の11月末に「災害史に学ぶ」という講演を聴く機会があった。若い世代に過去の災害の実像を伝えて、災害から何を学び何を生かすのかを内閣府が「災害教訓の継承に関する専門調査会」を創りその成果を世に問うている。その調査会のメンバーの人から話を聴いた。
その中で、災害史から学ぶことは、①災害の地震学的な周期性だけではない②災害を受けた社会の立ち直り方③災害が地域社会に与える影響④その時代がもたらす影響⑤これからの防災に生かすための智慧を引き出すための努力のありようだと話された。まさに、必要とされていることだ。
もう一度、17年前の想いを蘇らせつつ、今できる小さなことから始められたらと思う。
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投稿者: SuperVisor
書店に出かけた。久しぶりに2時間ぐらいかけ、専門書や気になる本のコーナーをあちこち見て回り、気に入ったものを購入した。そのあと別の本屋の平積みになっている文庫本の中で気になっていた「ビブリア古書堂の事件手帖」を買った。専門書を読んでコチコチになった頭を休めるのにふさわしく、一気に読んでしまった。結果、週末のいい時間つぶしとなった。
物語は一本の糸で結ばれている。まだまだシリーズとして続いていくと思われるのであまり説明する気もない。ただ、一冊の古書と古書が持ち込まれる背景、人の歴史が面白かった。第三話の論理学入門(青木文庫)には、そこで描かれている夫婦の人生に、十数年前に出会った夫婦とピッタリ重なり合った。人物の設定やその背景までもがうり二つのような気がした。一冊の本が縦糸なら、出てくる登場人物たちは横糸として、物語を構成している。別の話でもこの夫婦が描かれている。
夫が中途で視覚障害を持ちゆく者として、読めなくなった本を売りに来るわけだが、種明かしするつもりはないので興味があれば読まれるといい。
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投稿者: SuperVisor
沖縄の石垣市で「げっこう」の写真が撮られたとのこと。月明かりではない。月の光に照らされた虹である。満月のとき、その月の周囲に雲がかかっていて、円状のリングが取り囲んでいる現象は幾度となく経験してはいるが、月の光に照らされた半円の天空にかかる虹は、確かに見たことはない。記事によると自然現象が整えば見られるとのことだが、肉眼で見ても白く見えるというけど、じっくり観測すると、確かに虹とわかるのだろう。なぜなら、言葉として月虹があるからだ。
昔の人は、よく現象を観察していた。今どきの超高速のカメラで解析される炎のゆらぎとか波しぶきの散るさまとかが、その手立てのない時代の画家の表現の中にあらわれていたりする。だから、注意深く観察する眼があれば、「月虹」の七色も感じられるのかもしれない。


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投稿者: SuperVisor
今朝の4時とその前日の4時。目が覚めたのでNHKのラジオ深夜便を聴いた。「夫婦で歩むバッハへの道」とのタイトル。バイオリニストで視覚障害の和波孝禧氏とピアニストの土屋美寧子氏ご夫妻の話を楽しく聴くことができた。その中で、和波氏が夫婦喧嘩をして何が一番困るかを話したときに沈黙されることをあげていた。思わず、そうそうと心の中でつぶやいた。視覚障害のある人たちとのコミュニケーションで突然沈黙するのはタブーである。視覚障害者には状況が分からず心理的な圧迫を与えるからだ。
もう一つ。話された話の中で、ピアノは伴奏ではなくデュオであることが強調されていた。それぞれの音が一体となって一つの作品になるわけだからともに創っている感覚。どちらが主かという議論ではなくどのようにお互いが補完していくかが大切で、対等に関わることで音が磨かれていくことを夫婦の歴史を通して語られているのを、うんうんと肯きながら聴いた。
聴きながら、リハビリテーションの世界も同じで「主体は誰か」を外さなければ、どの専門家も対等に補完しあう関係であるからこの音の話とも通じるなあと感じた。
この話に興味を持った人は心配はいらない。期間限定だがNHKのネットラジオ「らじる★らじる」からラジオ深夜便に入り、「明日へのことば」までたどると聴くことが出来る。随分便利な時代になったものだ。
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投稿者: SuperVisor
指の怪我。被害が少なくてほっとしている。万年筆も支障なく使いこなせる。妙な力が入らないから書く字が綺麗だ。ここまで楽天的に考えられることも幸せなことだ。
白杖の基本操作の中で力を入れず振ることは意外と難しい。あの感覚と少し似ている。ただし、文字を書く行為は物心ついて以来あまりに自然なため、何か突発的なことが生じない限り力の入り方が気づけない。今までも、何回か同じような経験をしたはずなのだが意識に残っていない。
生活の中で当たり前の習慣化された行為の一つ一つも、視覚的な模倣を通して自然に行っているが、実は人それぞれ違っているらしい。実際にある一つの行為を手取り足取り教えられたことは少ない。一見、手に取って教えられているように、そして学んでいるように見えるけれど、微妙な感覚を伝えられているわけではない。
まして、身体の筋運動感覚について言うならば、そのものの動きをじっくりと伝達された経験はない。ずいぶん前のことになるが、筆跡鑑定のことを調べたことがある。書かれた文字が、誰のものであるのかを特定することがなぜ可能なのか。それは一人ひとりの書きぶりが違うからだ。ではなぜ、違ってくるのか。筆記具を持つ持ち方、腕、肘等の関節の動かし方やそれに伴う筋肉の動きが違うからだ。文字を書くために使われる筋肉や関節の数は何十種にものぼりかつ誰一人同じように使うことがないとの研究成果を知った時驚きを禁じえなかった。
転じて、感覚や筋運動感覚にともなう動きを正確に伝えるのは難しいだろうけれど、具体的にイメージ化し、どうすれば伝えられるかの方策は必ずあるはずだ。そんなことを思いながら、今日も一日が暮れていく。
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投稿者: SuperVisor
夕食の準備をしていて、スライサーで人参を調子よくスライスしていたら、右手の親指の肉の一部をそいでしまった。大失態である。薬箱にバンドエイドがない。あわててあちこち探すけれど、肝心な時に見つけられない。整理の悪さを嘆きつつ、血がポタポタ落ちるのを尻目になおも探す。もう一度丁寧に薬箱を探すと1枚出てきた。急いで巻いたけれど、見る見るうちに真赤に染まり、取れそうだ。仕方がないのでテッシュを外側に巻き押さえた。止血するまでの間は5分弱。改めて、要領の悪さに心の中で苦笑した。
その5分間の中で心に占めていた想いがある。いま、書くことが楽しい。年末から毎日、浮かんでくるアイデア、日々改善したい事項、感覚の面白さ、体験したこと、気づきや発見、失敗したことなど色々なことを書いている。書いていると頭の中が整理できる。そういう背景があってだと思うのだが「今晩、書きつける日記の支障になったら嫌だなあ」と思ったのだ。
こんな感覚いままでにないので面白い。こだわっていないのに書くことに執着している。考えてみると、年末年始も関係なく毎日、数時間没頭しあれこれ書きつけているのだから、不思議な感覚である。
さてさて、今パソコンに書きつけている。勝手は違うものの、シフトキーを押すのを左の親指で代用するだけで普通に使える。指が触れないから血も出ない。
けれど、紙に書きつけるときの筆圧の感じやサラサラと音をたてながら紙の上を滑っていく万年筆の、更にはインクのにおいも感じながら溢れ出てくる文字を書くにも、万年筆の軸を親指で支えると血がにじむ可能性がある。さすれば親指をそっと軸に沿えて無駄な力が入らないとすると痛みもなく書けるだろうし、更に文字も美しく書けるのではないか。別の期待がムクムク湧いてきている。このあと試してみないと損するような気持。痛みや不自由さも、やりようによって転換できるのではと思うとあれこれ試してみたくなるのだ。

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投稿者: SuperVisor
センターに初秋の頃から訓練に来ている50代の人に単眼鏡の導入を始めた。年末にカレンダー法による距離による視野に入る情報量の変化を意識化していくことを始めた人である。これまでロービジョンケアを色々と工夫してきたが、今回はこれまでと違ったやり方を一つ工夫してみた。
まず、裸眼の状態で、1m、2m、3m、5mのカレンダーの見え方を確認する。カレンダーの大きさは縦132.4cm、横106.2cm。1枚の大きさは縦33.1cm横35.4cmのものである。距離を伸ばして視野に入る情報量を意識してもらった。
1m離れて見える情報と2m離れて見える情報量の違いを意識する。数字や文字としての見やすさは1mのほうがはっきりわかるけれど情報は距離が倍になると倍以上違うことに気づいてもらう。3倍になると・・・・・。1mでカレンダー1枚、2mで4枚、3mでは9枚視野に入ることを確認した。この人の視野狭窄は半径10°以内である。
単眼鏡の扱いに興味を持ってもらうため、最初何も工夫しない4倍の単眼鏡をのぞいてみるように言うと、射出瞳(接眼レンズ側ののぞき窓)が透明なためどこを見てよいかわからない。そこで、黄色の丸いシールを貼り(のぞき窓の透明な部分は切り取る)、その円の内側をのぞくように言うとスムーズに絞り込める。
少し単眼鏡に慣れたところで、3m離れた位置でいくつかの倍率の単眼鏡を試してみる。4倍の単眼鏡ではカレンダー1枚分、6倍の単眼鏡ではカレンダー1枚の8/9程度、8倍の単眼鏡だと1枚の2/3程度の範囲しか見えないことを実感してもらった。つまり、距離が一定の場合、倍率が高くなれば低倍率のものより、はっきりと数字や文字は見えるが切り取る範囲が狭くなること、ちょっとのブレで見える範囲が動いてしまうことが理解できた。
まだまだ、説明が不十分なことに気づくとともに、提示の仕方によって、意識化の進み具合も違うことから当分様々なアイデアを試してみて、更に理解しやすい工夫に結び付けたいと思った。
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京都市交響楽団のニューイヤーコンサート2012に出かけた。子どもたちの母校である京都府立大学と京都府立植物園周辺のモダンな建物、それが京都コンサートホールでこのコンサートホールの大ホールに入るのは初めての体験。座席は右袖側2階の中央付近で舞台を斜めに見られる。
演目は新年に相応しいワルツや華やかな曲が多かった。圧巻はソプラノ歌手の幸田浩子で、グノーの「わたしは夢に生きたい」オッフェンバックの「森の小鳥はあこがれを歌う」、誰の作品か失念したがアンコールで歌った「アベマリア」の声に魂が揺さぶられるような感動をした。声楽の美しさは、楽器に勝るものだとつくづく感じた。
最後の演目は、ラヴェルのボレロ。新年のかつ震災後の日本復興に向けての機運にマッチした選曲だと思った。ボレロの主旋律にドンドンと楽器が加わっていく様はまさに協働のイメージそのもののよう。今までボレロを聞いていても感動しなかった。今回、小さな音からドンドン音が増え、その音の膨らみを心地よく感じられた。聴く側の心構えによっても違ってくることも改めて感じた。
さて、視覚障害児・者の聴覚訓練も同じように考えてよい。まず、最初の主旋律を奏でる楽器、その後にまた別の楽器が加わり、更にまたひとつ、またひとつと増えていく。メロディは同じであっても、個々の楽器の音はきちんととらえられている。ふと、40数年前の小学校時代に音楽鑑賞教室に京都会館に行ったことを思いだした。小学校時代に、音楽鑑賞教室で様々な楽器の音を色々な作品の数小節を奏でて聞かしてもらったこと、それが今回聞きに来ている京都市交響楽団であることに気づいた。不思議な縁だ。と言うのも、長じて視覚障害福祉に携わる中で音の重層化などをとても大切に考えているこの自分の中の潜在意識の深いところに、小学校時代の体験があるとは思ってもみなかったことだから。ボレロは、そんな体験を心の中に呼び起こしてくれた。
と同時にボレロのような組み立てで、印象深く、心地よい感覚訓練も新たに模索したいと思った。
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投稿者: SuperVisor
京都では1月7日から非公開文化財の特別公開が始まっている。冬や春の時期に期間限定で、普段見ることのできない文化財を開放する。ここ数年機会があれば見に出かけている。8日の昼前にも妻と散歩がてら、禅寺である妙心寺の三門を見に出かけた。楼上への急な階段を登ると、そこに30畳を超える空間が広がっている。少し薄暗いため、観音菩薩だの、十六羅漢だのが安置されている壁側の、その仏像の眼が光っているのが目についた。さらに天井はもとより柱や壁に彩色されているのだが暗がりに入ってすぐは、暗順応がいま一つで彩色の鮮やかさにさほど驚かないでいた。頭の中では、コーラルシュの暗順応に関する曲線のことなんかがよぎっていた。
普段は板敷のままの空間に、この期間参拝する人のための畳が敷かれていて、そこに座り解説のボランティアのおばさんの説明を10分程度聞いた。一つ一つの解説のあと、懐中電灯のスポットで羅漢や天井の絵を照らす。最初は、その灯があってでよくわかったが、途中から順応したおかげで懐中電灯の灯りよりも自然光でよく見えるようになった。観音菩薩と脇侍の善財童子、なんとか長者の安置されている天井に書かれている飛龍は圧巻であった。そのあとだ。緑や赤、青などの彩色された柱や、天女・楽器などの色が実に鮮やかに感じられるようになった。ラフラ像のある柱の一部の文様が今さっき彩色を施したかのような鮮やかさであり驚いた。
考えてみれば、懐中電灯と単眼鏡を持参し暗がりの中で照らすことに対して、どこのお寺も禁止していない。むしろ、暗順応してもよく見えない環境の中で、しっかりとみることも出来る。かってそんなことで、ロービジョンの人たちでお寺巡りが好きな人たちにアドバイスしていた。今回の特別公開の場合について考えると遮光眼鏡を利用し人工的にに暗順応を促進させたうえで単眼鏡を用いると、二・三百年前の彩色された当時の寺院の極彩色の雰囲気が十分に感じ取られるように思うのである。
またひとつ、気づきを得られた半日だった。