カテゴリー: 総合
投稿者: SuperVisor
夜中に目が覚める。ラジオのスイッチを入れるか、読みかけの本を読むか、汗を一杯かいたために水分を補給するか・・・、大体パターンが決まっている。ラジオや本にはまると、結局明け方まで起きていて、仕事中に猛烈に眠くなる。
昨日は、一瞬ドキドキした。目が覚め、水分補給をし部屋の電気を消したその一瞬。何気なく左目を隠し、その後右目を隠して天井の蛍光灯のある位置を見た。いつもどおり少しの残像が残る。左右差なんか感じないはずだった。ところが、左が右より暗い。何だと思った瞬間ばっちり目が覚めた。メガネをかけて見ても同じなのに、はずして見ると違う。むむつ、何か起こっているかも知れない。まあ、いいか。見づらくなったときはその時だと思い、すやすやと眠りに落ちてしまった。
昨日は、一瞬ドキドキした。目が覚め、水分補給をし部屋の電気を消したその一瞬。何気なく左目を隠し、その後右目を隠して天井の蛍光灯のある位置を見た。いつもどおり少しの残像が残る。左右差なんか感じないはずだった。ところが、左が右より暗い。何だと思った瞬間ばっちり目が覚めた。メガネをかけて見ても同じなのに、はずして見ると違う。むむつ、何か起こっているかも知れない。まあ、いいか。見づらくなったときはその時だと思い、すやすやと眠りに落ちてしまった。
実験のための31文字を作っている。直ぐにわかるものでも、わからないものでも困ってしまう。0.2秒提示して、最後に内容を聞くのだ。視野に制限のある人たちの見え方にポイントを置いている。31文字と言えば和歌の文字数である。到底和歌を詠むという芸当がないので、国文学を専攻している長男に依頼してみた。15程つくってもらった。その内の1つ。
ゆふされはつき 夕(ゆふ)されば月
あさかほひらく 朝顔ひらく
あしたのいかき 朝(あした)の斎垣(いがき)
いはきりとほす 岩(いは)切り通す(とほす)
たきかはのみつ 滝川(たきがわ)の水
推測読みが出来る場合、実際の見え方と違ってくる。余計なバイアスを取り除くために色々と考えてみるが、臨床家のぼくはついて行けない世界だ。当たり前に見えることや認知することを、エビデンスとしてとらえようとすると、丁寧に、ねばり強く考えることが先ずは一番大切なのだろうが、愚かで、怠け者で、相手に依存しやすいぼくは、なかなか出来ないのである。
寝っ転がって、イメージし、気の向いたときにイメージしたものを形にすることは好きだし、その製作中には無我夢中になるのだけれど、それも一年の内の数日なのである。ではあと何をするのか。それは、訓練。一対一の訓練は最高だ。訓練にも間が大切で、お互いに息が合うとすばらしいものになる。それを追い続けているのが自分らしく生きることなんだろうなぁと、実験のための準備に気持ちを盛り上げようとしている一日だった。
ゆふされはつき 夕(ゆふ)されば月
あさかほひらく 朝顔ひらく
あしたのいかき 朝(あした)の斎垣(いがき)
いはきりとほす 岩(いは)切り通す(とほす)
たきかはのみつ 滝川(たきがわ)の水
推測読みが出来る場合、実際の見え方と違ってくる。余計なバイアスを取り除くために色々と考えてみるが、臨床家のぼくはついて行けない世界だ。当たり前に見えることや認知することを、エビデンスとしてとらえようとすると、丁寧に、ねばり強く考えることが先ずは一番大切なのだろうが、愚かで、怠け者で、相手に依存しやすいぼくは、なかなか出来ないのである。
寝っ転がって、イメージし、気の向いたときにイメージしたものを形にすることは好きだし、その製作中には無我夢中になるのだけれど、それも一年の内の数日なのである。ではあと何をするのか。それは、訓練。一対一の訓練は最高だ。訓練にも間が大切で、お互いに息が合うとすばらしいものになる。それを追い続けているのが自分らしく生きることなんだろうなぁと、実験のための準備に気持ちを盛り上げようとしている一日だった。
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投稿者: SuperVisor
夕べはあまり眠れなかった。眠れないときは、NHKのラジオ深夜便をモソモソと聴いている。2時40分くらいから5分くらいだろうか「音の風景」が流れている。ナレーションがなくてもイメージできる風景から、あっても確定できない風景まである。布団の中で少し神経が高ぶっているのだろうか、自然な音を聴くとこころが穏やかになる。と言ってもスピーカーから流れてくるので、音の広がりはない。録音マイクで音をとるのは、とても難しく、理屈抜きで耳のすばらしさを感じたことがある。
川のせせらぎや、滔々と流れている川の音を採ることや海の様々な音を採るのにも随分苦労した。感覚訓練の中で「音のスナップ写真をとろう」と提案し、実際に自分のふるさとの音を採ってみたり、季節の音を採ってみたりしたことがある。なかなか、音をいいように採るのは難しいんですね。今も録音技術は上手くはないけど、時々思い出したかのように音風景をとろうと試みる。
そう言えば、デンマークやスウェーデン、イギリスに行ったときに音響信号機の音もとったけどどこにやってしまったんだろう?聞き慣れない音を聞いたとき、思わずICレコーダーと外付けマイクを持ってきておけば良かった等と思うのだ。
例えば僕が住んでいた函館の町の音は、ぼーっぼーっと遠くから聞こえてくる列車の音やウミネコの鳴き声、カンカンと聞こえてくる教会の音、朝の「イカイカいらんかねぇ」という物売りの声、市電の車音などがある。普段聞いていても意識にのぼらないことが多かったなぁと思いつつ、ふとしたときに意識にのぼる。
いま住んでいるところの音は、ジェット機の音や、郭公やホトトギス等の野鳥の声が意識にのぼる。雨音を楽しんだりもできる。生活音も豊富だ。でも、多くの生活音は、どの地方でも同じになりつつあるように思うのは、僕だけだろうか?
川のせせらぎや、滔々と流れている川の音を採ることや海の様々な音を採るのにも随分苦労した。感覚訓練の中で「音のスナップ写真をとろう」と提案し、実際に自分のふるさとの音を採ってみたり、季節の音を採ってみたりしたことがある。なかなか、音をいいように採るのは難しいんですね。今も録音技術は上手くはないけど、時々思い出したかのように音風景をとろうと試みる。
そう言えば、デンマークやスウェーデン、イギリスに行ったときに音響信号機の音もとったけどどこにやってしまったんだろう?聞き慣れない音を聞いたとき、思わずICレコーダーと外付けマイクを持ってきておけば良かった等と思うのだ。
例えば僕が住んでいた函館の町の音は、ぼーっぼーっと遠くから聞こえてくる列車の音やウミネコの鳴き声、カンカンと聞こえてくる教会の音、朝の「イカイカいらんかねぇ」という物売りの声、市電の車音などがある。普段聞いていても意識にのぼらないことが多かったなぁと思いつつ、ふとしたときに意識にのぼる。
いま住んでいるところの音は、ジェット機の音や、郭公やホトトギス等の野鳥の声が意識にのぼる。雨音を楽しんだりもできる。生活音も豊富だ。でも、多くの生活音は、どの地方でも同じになりつつあるように思うのは、僕だけだろうか?
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投稿者: SuperVisor
出会いは不思議です。50代の中心暗点の男性にお会いしました。左眼の中心暗点の真中2度以内の見える位置を用いて、仕事をしていました。視力的には、0.5程あります。日常生活では、周辺視野を何とか用いようとしていて、食事や歩行などではそこを用いているとのことでした。
話している中で、偏心視野を用いることが求められているのはわかってはいるけれど、中心で見ることが捨てられないこと、周囲の人たちの助言はよくわかるのだけれど、「頑張る」ということがわからなくなっていること等々話してくれました。
「残された4年間をどうしたいのですか?」とお尋ねしたところ「このままで定年退職はしたくないこと、今の仕事に対しては不満であること、自信を持てる仕事をした上で、退職したい」ことなど、少しばかり本心を吐露してくれました。
職場の継続雇用を考えたとき、ご本人自身が「何を本当にしたいのか」が不明確であると、一方的に雇用する側から「この配慮している仕事が出来なければ休職しかないでしょう」と言われてしまう。そして、思考停止状態にあると雇用側に「見えないから仕事が出来ないのではなく、どういう雇用を創出できると考えられていますか?」「現実に原職復帰している、継続雇用されているケースについて調べられて、無理との評価なのですか・・・」などと切り返すだけの力が出てこないのだと思いました。
偏心視野を活用するには、3点考えられることも話しました。1つは、中心で見ようとしたときに、今、自分は偏心固視を活用しようとしている。中心で見ないようにしようと意識して取り組む。2つには、右眼の偏心固視をつくる。3つには、中心が使える間はたとえ、しんどくとも使い切る。そして、自分自身がその限界を知り得たときに、偏心固視のトレーニングをする。ことなどを話しました。
同時に、まっすぐの視線を保ちながら周辺視野に様々なポイントの文字を提示しました。ご本人は、ハッとされたようで、まん中でのシャープさはないですが、文字はわかりますとのことでした。
なかなか、伝えきることは難しいのですが、本人が「自分自身が何をしたいのか」「人生の中で何を果たしたいのか」「夢や希望は何か」を一緒に整理していくことも大切なのだと感じました。
また、別の19歳と22歳の網膜色素変性症の姉弟の方とも出会いました。19歳の青年は、板前修業をしていたのですが、急激な視力・視野の低下により、あきらめて退社したとのことでした。そこでは、福岡で成功している全盲の板前さんの話をしました。22歳の姉の方は臨床心理士を目指して勉強しているのですが、読み速度の遅さから続けていけるかどうか不安になっておられました。
この二人の出会いの中から、若くて有為な青年達が、「目が悪いから夢をあきらめなくてはならない」という気分にとらえられることの痛みを感じました。これから先のことは、実際のところ視覚障害があろうとなかろうと誰もわからないのが事実だと思います。
けれども、専門家をはじめとする関わり合う大人は、無理という烙印を押していないか。視覚障害者はかくあるべき存在と見なしていないかと反省もしました。
夢や希望を抱いて、多くの人たちは何の保証もないのに努力したりします。追い続けたりもします。ならば、少しの工夫や配慮や道具があれば創出することはできないか。その夢の実現のためにどれだけ汗を流しているかを問われているように感じました。
そのためにも、関わる側の傾聴の必要、つまりは、本心を聴き、その本心を励ませる力を磨くことの大切さを改めて思ったのでした。
話している中で、偏心視野を用いることが求められているのはわかってはいるけれど、中心で見ることが捨てられないこと、周囲の人たちの助言はよくわかるのだけれど、「頑張る」ということがわからなくなっていること等々話してくれました。
「残された4年間をどうしたいのですか?」とお尋ねしたところ「このままで定年退職はしたくないこと、今の仕事に対しては不満であること、自信を持てる仕事をした上で、退職したい」ことなど、少しばかり本心を吐露してくれました。
職場の継続雇用を考えたとき、ご本人自身が「何を本当にしたいのか」が不明確であると、一方的に雇用する側から「この配慮している仕事が出来なければ休職しかないでしょう」と言われてしまう。そして、思考停止状態にあると雇用側に「見えないから仕事が出来ないのではなく、どういう雇用を創出できると考えられていますか?」「現実に原職復帰している、継続雇用されているケースについて調べられて、無理との評価なのですか・・・」などと切り返すだけの力が出てこないのだと思いました。
偏心視野を活用するには、3点考えられることも話しました。1つは、中心で見ようとしたときに、今、自分は偏心固視を活用しようとしている。中心で見ないようにしようと意識して取り組む。2つには、右眼の偏心固視をつくる。3つには、中心が使える間はたとえ、しんどくとも使い切る。そして、自分自身がその限界を知り得たときに、偏心固視のトレーニングをする。ことなどを話しました。
同時に、まっすぐの視線を保ちながら周辺視野に様々なポイントの文字を提示しました。ご本人は、ハッとされたようで、まん中でのシャープさはないですが、文字はわかりますとのことでした。
なかなか、伝えきることは難しいのですが、本人が「自分自身が何をしたいのか」「人生の中で何を果たしたいのか」「夢や希望は何か」を一緒に整理していくことも大切なのだと感じました。
また、別の19歳と22歳の網膜色素変性症の姉弟の方とも出会いました。19歳の青年は、板前修業をしていたのですが、急激な視力・視野の低下により、あきらめて退社したとのことでした。そこでは、福岡で成功している全盲の板前さんの話をしました。22歳の姉の方は臨床心理士を目指して勉強しているのですが、読み速度の遅さから続けていけるかどうか不安になっておられました。
この二人の出会いの中から、若くて有為な青年達が、「目が悪いから夢をあきらめなくてはならない」という気分にとらえられることの痛みを感じました。これから先のことは、実際のところ視覚障害があろうとなかろうと誰もわからないのが事実だと思います。
けれども、専門家をはじめとする関わり合う大人は、無理という烙印を押していないか。視覚障害者はかくあるべき存在と見なしていないかと反省もしました。
夢や希望を抱いて、多くの人たちは何の保証もないのに努力したりします。追い続けたりもします。ならば、少しの工夫や配慮や道具があれば創出することはできないか。その夢の実現のためにどれだけ汗を流しているかを問われているように感じました。
そのためにも、関わる側の傾聴の必要、つまりは、本心を聴き、その本心を励ませる力を磨くことの大切さを改めて思ったのでした。
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投稿者: SuperVisor
明日、原職復帰を目指す50代の方にお会いする。中心暗点がある。中心が全く見えないわけでなく、すりガラスから外界をのぞいているような感じだ。白けた感じがあり、コントラストがはっきりしないと見づらい。(比較暗点)文字で例えれば、明朝体は見にくいが、ゴシック体やポップ体は見やすい。白地に黒文字よりも黒地に白文字が見やすい。
この50代の男性は、スクリーンリーダーを自分のパソコンに入れている。訓練も若干受けているのだが、よりスキルアップをしたいとは今のところ思えないのだ。急激な見えづらさの変化に戸惑うとともに、中心が見えなくなってしまえばおしまいだと自分なりに感じているから、なかなか冷静には判断できないのだと僕は思っている。
僕自身の印象としては、様々な人が関わりを持っていて、本人にとってベターな道を同伴してくれているように見受けられるのだけれども、本人自身は見えなくなったら仕事が出来ないと思いこんでいる。そういうときは、じっと本人が感じている漠然たる不安を聴くことと、同時に、周辺視野の活用が出来ることを体感してもらうことが大切なのだが、体感することは、なかなか難しい。
あきらめた心では何も出来ないのだ。夢や希望という言葉に集約される「世の中で果たしたい自分なりの生き方」を自己の内に見いだせるかが鍵になる。そこには、「こうなったから仕方がない」という思いから離れ、「こうなってしまったけど、まだ可能性がある」と思える転換が必要である。
転換が必要と言い切ったが、実際のところ転換するためにはエネルギーがいる。そのエネルギーのため方も含めて、出会いの中でどう伝えるかを考えようとしている。
支援する側が、見えることの楽しさや素晴らしさを本心から伝えきれたとき、新しい着地点が見いだせるように思う。
この50代の男性は、スクリーンリーダーを自分のパソコンに入れている。訓練も若干受けているのだが、よりスキルアップをしたいとは今のところ思えないのだ。急激な見えづらさの変化に戸惑うとともに、中心が見えなくなってしまえばおしまいだと自分なりに感じているから、なかなか冷静には判断できないのだと僕は思っている。
僕自身の印象としては、様々な人が関わりを持っていて、本人にとってベターな道を同伴してくれているように見受けられるのだけれども、本人自身は見えなくなったら仕事が出来ないと思いこんでいる。そういうときは、じっと本人が感じている漠然たる不安を聴くことと、同時に、周辺視野の活用が出来ることを体感してもらうことが大切なのだが、体感することは、なかなか難しい。
あきらめた心では何も出来ないのだ。夢や希望という言葉に集約される「世の中で果たしたい自分なりの生き方」を自己の内に見いだせるかが鍵になる。そこには、「こうなったから仕方がない」という思いから離れ、「こうなってしまったけど、まだ可能性がある」と思える転換が必要である。
転換が必要と言い切ったが、実際のところ転換するためにはエネルギーがいる。そのエネルギーのため方も含めて、出会いの中でどう伝えるかを考えようとしている。
支援する側が、見えることの楽しさや素晴らしさを本心から伝えきれたとき、新しい着地点が見いだせるように思う。
19歳の盲学校出身の弱視聾の青年と話をした。「君が本当にしたいことは何かな?」「いまどのような夢を持っているのか聴きたいなぁ」等と問いかけてみた。本人や周囲の人たちは「あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師」のこの4月から勉強をはじめた彼に対して、疑いもせず夢の延長線上にそれがあると思っている。
けれども、彼は「一番はIT企業に就職したい。でも、出来なかったら不安だし、安全パイのために資格があればなんとかなるんじゃないか。それに周りから反対されたくないから、取りあえずここで勉強している」とのことだった。
なぜ、このような問いかけを彼にしたかというと、「座学については問題ないのですが、実技の時間になるとふらつきや固まってしまう」と教官から相談を受け、本当にしたいことは別にあるのかも知れないと思ったからだ。
実際のところ、「実技が上手くいかないし、気持ちは別のところにあるから、夜眠れない。パソコンを触っている時が一番熱中できる。実技で駄目になるのかと考えると、また緊張して出来なくなる」と。彼の中では、一番はパソコンで、そのパソコンの訓練を受けたいのだけれども、何となく将来に対する不安から取りあえず資格があればという程度の感覚。けれども、そのことが、実は自分自身の本心を曇らせているかもしれないことに気づけていないのかも知れない。心の表層であれこれ考えても、自分自身の夢を見いだせないときには、エネルギーは出てこないし、簡単にぶれてしまうことが多いのではないだろうか?
自分自身が「人生の中で果たしたい夢」をどれほどの人に語れるだろうか。自分自身のことと重ね合わせて考えると、なかなか難しい。自分の求めているのはこれだなんて思っていても、試練や問題が目の前に立ち現れるとぶれてしまうことから見ても、この青年が自分がしたいことを見いだそうともがいていることも十分にわかる。
でも、ほんとうにこれでいいのだろうか?多くの人たちは「世の中の役に立ちたい」と思っているだろう。それは、自分自身の能力や興味もさることながら、本心からこうしたいと思う気持ちが根底にあるからではないだろうか。
かって、「日本の片隅から世界に向けてロービジョンの新しい風を吹かせたい」という気持ちから、この道を歩み始めた。全くと言っていいほど無力なのだが、少なくとも20
年を超える年月の中で努力だけはし続けている。そのもっと深いところに「社会福祉の本質を世界に花開かせたい」という10代半ばに抱いた思いがある。その先には、小学生の頃、インドやアフリカの饑餓の映像を見て、「一人一人が人間らしく生きられる世界があったらいいなぁ」という思いがある。
福祉の世界に誘われるきっかけは2つあった。1つは13歳の事件。肢体不自由のM君との出会いであった。クラスの連絡網の次が彼であったのだが、連絡網をぼくのところで途切れさせてしまった。その原因の一端を彼のせいにしたこと。その恥ずかしい、そして
後悔する思いが僕の原点の一つだ。人間的な弱さを自分自身に感じ、同時に彼の従容として事態を透明な空気のように受けとめる姿に人間的な郷愁を感じたことだった。
2つには、親友のN君との出会い。彼とは様々なことを議論していたが、福祉の話になると理解できないことが多かった。同じ土俵に立たなければわからない。そう考えた僕は大学を中退して、社会福祉系の大学に入り直した。
大学の気配の中に、「孤独、人生の敗残、社会的な不備、差別」等、社会の底辺と言われる現実をまざまざと感じたとき、僕自身、何が出来るかわからないけれど、ぼくの立ち位置はここにあると思ったことだ。
「社会的な痛みに対して応えたい」「本当の癒しとは何か」がテーマになった。そして、人生をあきらめることなく、あせることなく、あわてることなく、大切にできる現場の一端を担いたいと思った。どれだけ、初志を抱いているのか疑問だが、とにかく色々と頑張れるとしたらこれが大きいと感じている。
弱視聾の彼との話し合いの中で、「彼の原点は何だろうか」と考え続けたいと思った。
けれども、彼は「一番はIT企業に就職したい。でも、出来なかったら不安だし、安全パイのために資格があればなんとかなるんじゃないか。それに周りから反対されたくないから、取りあえずここで勉強している」とのことだった。
なぜ、このような問いかけを彼にしたかというと、「座学については問題ないのですが、実技の時間になるとふらつきや固まってしまう」と教官から相談を受け、本当にしたいことは別にあるのかも知れないと思ったからだ。
実際のところ、「実技が上手くいかないし、気持ちは別のところにあるから、夜眠れない。パソコンを触っている時が一番熱中できる。実技で駄目になるのかと考えると、また緊張して出来なくなる」と。彼の中では、一番はパソコンで、そのパソコンの訓練を受けたいのだけれども、何となく将来に対する不安から取りあえず資格があればという程度の感覚。けれども、そのことが、実は自分自身の本心を曇らせているかもしれないことに気づけていないのかも知れない。心の表層であれこれ考えても、自分自身の夢を見いだせないときには、エネルギーは出てこないし、簡単にぶれてしまうことが多いのではないだろうか?
自分自身が「人生の中で果たしたい夢」をどれほどの人に語れるだろうか。自分自身のことと重ね合わせて考えると、なかなか難しい。自分の求めているのはこれだなんて思っていても、試練や問題が目の前に立ち現れるとぶれてしまうことから見ても、この青年が自分がしたいことを見いだそうともがいていることも十分にわかる。
でも、ほんとうにこれでいいのだろうか?多くの人たちは「世の中の役に立ちたい」と思っているだろう。それは、自分自身の能力や興味もさることながら、本心からこうしたいと思う気持ちが根底にあるからではないだろうか。
かって、「日本の片隅から世界に向けてロービジョンの新しい風を吹かせたい」という気持ちから、この道を歩み始めた。全くと言っていいほど無力なのだが、少なくとも20
年を超える年月の中で努力だけはし続けている。そのもっと深いところに「社会福祉の本質を世界に花開かせたい」という10代半ばに抱いた思いがある。その先には、小学生の頃、インドやアフリカの饑餓の映像を見て、「一人一人が人間らしく生きられる世界があったらいいなぁ」という思いがある。
福祉の世界に誘われるきっかけは2つあった。1つは13歳の事件。肢体不自由のM君との出会いであった。クラスの連絡網の次が彼であったのだが、連絡網をぼくのところで途切れさせてしまった。その原因の一端を彼のせいにしたこと。その恥ずかしい、そして
後悔する思いが僕の原点の一つだ。人間的な弱さを自分自身に感じ、同時に彼の従容として事態を透明な空気のように受けとめる姿に人間的な郷愁を感じたことだった。
2つには、親友のN君との出会い。彼とは様々なことを議論していたが、福祉の話になると理解できないことが多かった。同じ土俵に立たなければわからない。そう考えた僕は大学を中退して、社会福祉系の大学に入り直した。
大学の気配の中に、「孤独、人生の敗残、社会的な不備、差別」等、社会の底辺と言われる現実をまざまざと感じたとき、僕自身、何が出来るかわからないけれど、ぼくの立ち位置はここにあると思ったことだ。
「社会的な痛みに対して応えたい」「本当の癒しとは何か」がテーマになった。そして、人生をあきらめることなく、あせることなく、あわてることなく、大切にできる現場の一端を担いたいと思った。どれだけ、初志を抱いているのか疑問だが、とにかく色々と頑張れるとしたらこれが大きいと感じている。
弱視聾の彼との話し合いの中で、「彼の原点は何だろうか」と考え続けたいと思った。
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投稿者: SuperVisor
ある人から、「進行性の眼疾患の方に対しての歩行訓練について、どうお考えか」と聴かれた。言うまでもなく、その人の状況により「ロービジョンタイプの訓練」「全盲タイプの訓練」という風に分けて実施しますよと応えた。
進行性の眼疾患と言っても、止めようもなく進行するタイプから、網膜色素変性症のようなある一定の期間プラトー状態からストンと進み、また停滞をして、また進むという繰り返しをするタイプもある。
同じ病気でも個体差が様々で、一般化するのも危険なのだが、たいてい聴いてくる人たちは、「言葉の表層」だけをとらえて議論をふっかけてくるように思う。
くだんの質問をした人は「あなたは進行性の疾患の人に全盲タイプの訓練をしないのではないか」と言いたかったようである。この誤解に大いに腹立たしい思いをしたけれども、禅の公案のような受け答えをした。「機を見て応ず。これ歩行訓練の極意なり」。
何が言いたいのか、皆さんはおわかりのことだと思う。
自分の保有視覚を使いたい人が「全盲タイプの訓練」をしたいのだろうか?「多くは経験してみよう」程度で実際に役立たないことが多い。
実際のところ、以下のようなタイプがある。
①周りの目も気になるけど、とりあえず何とかなると思い、できるだけ杖は使いたくな いタイプ
②周りの目は気になるが、いざという時のために杖のつきかたをとりあえず学んでおこ うというタイプ
③保有視覚を十分に使いたいので、杖は足下の不安を取り除ければいいというタイプ
④見えているのアイマスクをして、全盲タイプの訓練をするのは嫌だと思うタイプ
⑤将来の失明の可能性が捨てきれないので、準備を怠りなくして積極的に学びたいタイ プ
・・・・・・。
そこにそれぞれの視力や視野の状態、その人の生活レベル等が複雑に絡み合うことで、一人一人に対する応え方も変わってくる。白杖を本当に持てるタイミングとどの時期に全盲タイプの訓練を行うか、本人のこころや身体の準備を見てとることが重要だと考えている。
さてさて、質問された相手に伝わったか?幾分不安を抱きつつも、一方ではロービジョンの○○と思われていることに不思議な印象を持った。
進行性の眼疾患と言っても、止めようもなく進行するタイプから、網膜色素変性症のようなある一定の期間プラトー状態からストンと進み、また停滞をして、また進むという繰り返しをするタイプもある。
同じ病気でも個体差が様々で、一般化するのも危険なのだが、たいてい聴いてくる人たちは、「言葉の表層」だけをとらえて議論をふっかけてくるように思う。
くだんの質問をした人は「あなたは進行性の疾患の人に全盲タイプの訓練をしないのではないか」と言いたかったようである。この誤解に大いに腹立たしい思いをしたけれども、禅の公案のような受け答えをした。「機を見て応ず。これ歩行訓練の極意なり」。
何が言いたいのか、皆さんはおわかりのことだと思う。
自分の保有視覚を使いたい人が「全盲タイプの訓練」をしたいのだろうか?「多くは経験してみよう」程度で実際に役立たないことが多い。
実際のところ、以下のようなタイプがある。
①周りの目も気になるけど、とりあえず何とかなると思い、できるだけ杖は使いたくな いタイプ
②周りの目は気になるが、いざという時のために杖のつきかたをとりあえず学んでおこ うというタイプ
③保有視覚を十分に使いたいので、杖は足下の不安を取り除ければいいというタイプ
④見えているのアイマスクをして、全盲タイプの訓練をするのは嫌だと思うタイプ
⑤将来の失明の可能性が捨てきれないので、準備を怠りなくして積極的に学びたいタイ プ
・・・・・・。
そこにそれぞれの視力や視野の状態、その人の生活レベル等が複雑に絡み合うことで、一人一人に対する応え方も変わってくる。白杖を本当に持てるタイミングとどの時期に全盲タイプの訓練を行うか、本人のこころや身体の準備を見てとることが重要だと考えている。
さてさて、質問された相手に伝わったか?幾分不安を抱きつつも、一方ではロービジョンの○○と思われていることに不思議な印象を持った。
世間でも話題になっている部分日食を見ることが出来た。薄曇りの中で太陽が欠けていく様をじーっと見続けられるのも曇っているからだ。すっきりとした、やや湿度が高い状態での観察だと、色々な小道具が必要だったわけで、曇り空も案外悪いものではないと再認識した。
ロービジョン児・者が苦手とするものの一つとして、天体観察というのがあげられる。空に浮かぶ天体で発見しやすいものは、月や太陽である。月や太陽が、我々の目に同じくらいの大きさで映るのも不思議なことだ。地球から太陽までの距離と地球から月までの距離は400分の1。太陽と月の大きさは太陽のが400分の1。網膜上には同じ大きさに映るということでもある。このことから、皆既日食という天体ショーを楽しむことができる。
みなさんは、部分日食を見られたでしょうか?
ロービジョン児・者が苦手とするものの一つとして、天体観察というのがあげられる。空に浮かぶ天体で発見しやすいものは、月や太陽である。月や太陽が、我々の目に同じくらいの大きさで映るのも不思議なことだ。地球から太陽までの距離と地球から月までの距離は400分の1。太陽と月の大きさは太陽のが400分の1。網膜上には同じ大きさに映るということでもある。このことから、皆既日食という天体ショーを楽しむことができる。
みなさんは、部分日食を見られたでしょうか?
今日は色々ある日だ。長野の西澤電機計器製作所から2人がナイツの拡大読書器担当職員と一緒に尋ねてきた。8月1日から、拡大読書器部門をこの長野のメーカーが引き継ぐこととなったそうである。
拡大読書器については、もしかしたらナイツが撤退するとタイムズコーポレーションの寡占状態になりはしないかと危惧していたところだが、先ずは、一安心と言ったところだ。今後一年間は、ナイツのブランド名で市場に供給するとのことだった。
この長野のメーカーの2人と少し話したが、福祉マインドに溢れていて、軌道に乗りさえすれば安心できると思った。
携帯型拡大読書器よりも電子拡大鏡という概念でコンパクトで使いやすいものも考えてほしいとの要望も出した。
拡大読書器については、もしかしたらナイツが撤退するとタイムズコーポレーションの寡占状態になりはしないかと危惧していたところだが、先ずは、一安心と言ったところだ。今後一年間は、ナイツのブランド名で市場に供給するとのことだった。
この長野のメーカーの2人と少し話したが、福祉マインドに溢れていて、軌道に乗りさえすれば安心できると思った。
携帯型拡大読書器よりも電子拡大鏡という概念でコンパクトで使いやすいものも考えてほしいとの要望も出した。
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投稿者: SuperVisor
拡大・縮小読書器なるものを数年前に「ナイツ」という会社に創ってもらった。
世界同時不況によってナイツはロービジョンの分野から撤退し、とは言っても単眼鏡の供給は継続するとのことだが、CCTV(拡大読書器)は、長野のにしざわでんききき(どう表記するのかわからないので平仮名にしておきます)というメーカーに技術移転するそうです、時代の潮流を感じている。
拡大読書器の据え置き型の中でXYテーブルを使用するものは、画面の見る位置を固定し、横書き、縦書きの際にネジのゆるめ方を考える必要がある。また、本人の姿勢や視野の位置によって、必ずしも正面に構える必要はない。
視野が狭くてある程度視力のある人例えば0.2以上あると、文字を視野内に沢山入れたいために縮小を好む。けれども、実際としては、そのような道具がない。特に白黒反転した場合、フォントが崩れてしまう。なかなか難しいのである。
考えてみると、少数意見というのはなかなか聞き入れられないのが現状である。光学的補助具では、15倍から22倍程度、しかも文字数にすると視野に1~2文字前後しか入らないものが多いのだけれども、拡大読書器なるものは50倍前後に拡大可能である。いままで、文字を読むことをあきらめていた人たちにとっては朗報と言えるが、街の中でこれを保障するにはとても難しい。表示自体を大きくし近づけば、網膜上に拡大されるが、なかなか近づいて見る勇気があるだろうか?
もう10年以上にもなるだろう。グラスファイバールーペなるものが考案され手にしたときの驚きは今も鮮明に残っている。細くくびれている側を読みたい紙面に当てると、大きな面に2倍程度に文字が拡大される。多少暗くても、明るく映る。写り込みがないのに驚いた。逆さまにすると、細くくびれている面の中に、文字が縮小されて映る。これには改めて驚いたものだ。この原理をうまく活用すれば、かなりの視野狭窄のロービジョンにとって様々な場面で楽に活用できるのではと考えたが、なかなかこれ以上は進展しなかった。
そんなおり、マイナスレンズを離して活用すれば視野内にかなりの情報が納められることに気が付いた。函館の夜景を見てもらって大いに感激してもらったことを今も鮮明に覚えている。
話を元に戻すと、携帯型のCCTVがかなりの勢いで広がっている。これは、どちらかというと電子ルーペ的で、長時間の活用での疲労感は大きい。白黒反転できない制約が光学的な拡大鏡にはあるが、携帯型読書器はこの欠点を補って余りある。拡大鏡を長時間活用するのは相当に疲れるが、また、携帯型読書器の疲労感も同じである。
そんなことを考えながら、本当に「見ることの」喜びを取り戻すための方策はどこにあるのか考えたいと思うのである。
世界同時不況によってナイツはロービジョンの分野から撤退し、とは言っても単眼鏡の供給は継続するとのことだが、CCTV(拡大読書器)は、長野のにしざわでんききき(どう表記するのかわからないので平仮名にしておきます)というメーカーに技術移転するそうです、時代の潮流を感じている。
拡大読書器の据え置き型の中でXYテーブルを使用するものは、画面の見る位置を固定し、横書き、縦書きの際にネジのゆるめ方を考える必要がある。また、本人の姿勢や視野の位置によって、必ずしも正面に構える必要はない。
視野が狭くてある程度視力のある人例えば0.2以上あると、文字を視野内に沢山入れたいために縮小を好む。けれども、実際としては、そのような道具がない。特に白黒反転した場合、フォントが崩れてしまう。なかなか難しいのである。
考えてみると、少数意見というのはなかなか聞き入れられないのが現状である。光学的補助具では、15倍から22倍程度、しかも文字数にすると視野に1~2文字前後しか入らないものが多いのだけれども、拡大読書器なるものは50倍前後に拡大可能である。いままで、文字を読むことをあきらめていた人たちにとっては朗報と言えるが、街の中でこれを保障するにはとても難しい。表示自体を大きくし近づけば、網膜上に拡大されるが、なかなか近づいて見る勇気があるだろうか?
もう10年以上にもなるだろう。グラスファイバールーペなるものが考案され手にしたときの驚きは今も鮮明に残っている。細くくびれている側を読みたい紙面に当てると、大きな面に2倍程度に文字が拡大される。多少暗くても、明るく映る。写り込みがないのに驚いた。逆さまにすると、細くくびれている面の中に、文字が縮小されて映る。これには改めて驚いたものだ。この原理をうまく活用すれば、かなりの視野狭窄のロービジョンにとって様々な場面で楽に活用できるのではと考えたが、なかなかこれ以上は進展しなかった。
そんなおり、マイナスレンズを離して活用すれば視野内にかなりの情報が納められることに気が付いた。函館の夜景を見てもらって大いに感激してもらったことを今も鮮明に覚えている。
話を元に戻すと、携帯型のCCTVがかなりの勢いで広がっている。これは、どちらかというと電子ルーペ的で、長時間の活用での疲労感は大きい。白黒反転できない制約が光学的な拡大鏡にはあるが、携帯型読書器はこの欠点を補って余りある。拡大鏡を長時間活用するのは相当に疲れるが、また、携帯型読書器の疲労感も同じである。
そんなことを考えながら、本当に「見ることの」喜びを取り戻すための方策はどこにあるのか考えたいと思うのである。
カテゴリー: 総合
投稿者: SuperVisor
7月18日(土)、19日(日)と札幌で日本ロービジョン学会があり参加したが、学ぶべき事も多くあり、ぼく自身にとっては有意義な学会となった。7月としては、20度前後の気温で、例年になく涼しく、関東の猛暑からホット一息つくといった感じ。滞在していた2日間は雨模様で、すつきりした夏の北海道とは違った印象が残った。
10年という節目の中のロービジョン学会であったが、学会の内容としては、無難な印象だった。
最近は様々なスタンスの人達の発表を、肯定的に聴くことに徹しているので、その発表での一言一言が面白く感ぜられるのだが、何か新しい気づきがあったかと問われるとNoと言わざるを得ない。
気になったのは、学問的ではあるが、ロービジョン者の生活が感じられない。日常生活の中で様々な困難さや困惑の中で生活している一人一人の、そのケアを担っていくために必要な「声」が聞き取れなかった。少なくとも、僕自身は・・・。
ロービジョン者に見せることも「拡大すること」を良しとする風潮も相変わらずで、等倍若しくは縮小して欲しいという少数の意見は聴きとれなかった。視野のこと、本当に分かっているのだろうかと不安になった。
訪問指導と称して拡大読書器の指導に1回行くものの、定期的なフォローがない。病院や施設での拡大読書器の指導は、その人の生活に近づこうとしてもなかなか真に捉えられない限界がある。けれども、訪問指導は、生の生活に近づくことであり、その中で、2週間に1回程度、3ヶ月ほど訪問することでかなり使える道具にできると思う。
何か、研究のための研究になっているような気がしてならないのである。
とは言え、自分自身の今までの足跡を振り返ってみると、同じようなことをしてきたとも思い、批判なんぞできるわけでもない。
ただ、若かりし頃から、できるだけ一人一人のロービジョンの心の声を聞こうとしてきた自分として、己に厳しく、一言一言に責任を持って語り続けようと感じた次第である。
つまりは、自分の愚かさにまた一つ気がつけたことが大きな収穫だったと思うのである。
10年という節目の中のロービジョン学会であったが、学会の内容としては、無難な印象だった。
最近は様々なスタンスの人達の発表を、肯定的に聴くことに徹しているので、その発表での一言一言が面白く感ぜられるのだが、何か新しい気づきがあったかと問われるとNoと言わざるを得ない。
気になったのは、学問的ではあるが、ロービジョン者の生活が感じられない。日常生活の中で様々な困難さや困惑の中で生活している一人一人の、そのケアを担っていくために必要な「声」が聞き取れなかった。少なくとも、僕自身は・・・。
ロービジョン者に見せることも「拡大すること」を良しとする風潮も相変わらずで、等倍若しくは縮小して欲しいという少数の意見は聴きとれなかった。視野のこと、本当に分かっているのだろうかと不安になった。
訪問指導と称して拡大読書器の指導に1回行くものの、定期的なフォローがない。病院や施設での拡大読書器の指導は、その人の生活に近づこうとしてもなかなか真に捉えられない限界がある。けれども、訪問指導は、生の生活に近づくことであり、その中で、2週間に1回程度、3ヶ月ほど訪問することでかなり使える道具にできると思う。
何か、研究のための研究になっているような気がしてならないのである。
とは言え、自分自身の今までの足跡を振り返ってみると、同じようなことをしてきたとも思い、批判なんぞできるわけでもない。
ただ、若かりし頃から、できるだけ一人一人のロービジョンの心の声を聞こうとしてきた自分として、己に厳しく、一言一言に責任を持って語り続けようと感じた次第である。
つまりは、自分の愚かさにまた一つ気がつけたことが大きな収穫だったと思うのである。
カテゴリー: 総合
投稿者: SuperVisor
最近、電気自動車の性能が向上しているとの話と社会のインフラが整えば音環境が変化していくこととをあれこれと考えています。ハイブリッド車が開発された際、トヨタのプリウスが印象的なのですが、交差点での音がとれないとの話題がありました。
北国で生活しているときに、雪壁が背丈を超えるような場面での交差点の無音状態をイメージしつつ、これは視覚障害者にとって困ったことになるなぁと思いました。
昨今の地球温暖化の問題も手伝い、あるいは世界同時不況の中で電気自動車が話題になるにつれ、モーター音しかしないという自動車が広がる世界を思うとき、改めて音環境についてしっかりと考える必然を感じています。
感覚訓練を様々と工夫してきた私にとっても捨てておけない問題意識があります。音をきちんととらえるためには、耳を鍛えること。その耳を鍛えていく上では、静かな音環境から騒々しい音環境へと音を少しずつ加えていきながら、マスキングされがちな音を選択的に聞き分ける必要性があります。
このように書くと、簡単そうに思えますが、実はなかなかとらえにくいのです。
例えば視覚障害者誘導ブロックの形状や敷設の仕方、路面とのコントラストにも似たような問題が隠されています。路面にコントラストをつけても天候の状態により、見え方が全く変わってしまうのです。つまり、言いたいことは、自然現象や自然環境にかなりの部分依拠するということです。
音環境も、季節によって音の聞こえ方が変わります。雨が降ったときも、雪がシンシンと降っているときにも変わります。これからの季節蝉がジージーと鳴く際にも・・・。
そんな多様な日常生活の中で、必要最小限の音サインというものをしっかり考える。一面的なとらえ方ではなく、様々な条件の中で、「安全性」「快適性」「選択的」な音とは何かを普段から意識し、提言していく準備を今から始めておかないとと考えます。
もちろん、音ではなく振動を活用するという方法も考えられます。最近とみに思うことは、社会的な発言力のある人たちの、あるいは障害のある一部の人の意見が、何の検証もなくただ取り入れられていることに危惧を感じています。
一人一人が個性的であることを考えると、実は大いに議論しながらより沢山の人たちにとっていいものを創造していく。と言いつつ沢山のという曖昧さは禁物なのですが。
具体的に様々なタイプについて検証し、その上で共通項を拾い出していく地道な作業を重ねていくことに尽きると思います。
私自身、Eye MovementやSensory Awakeningを拡げてきたわけですが、それはある側面の一つにしか過ぎないと感じています。砂浜の砂のほんの一握りにも過ぎないことしかわかっていないと感じています。ですから、考えられる限りの一人一人の実験から経験知として生み出していければとも考えます。
とは言え、これすらも真実なのかどうか?ただ言えることは「ああ、そうか」という体験から出てくる実感は、多くはその方向性で間違いが少ないというものです。そして、他の人たちにとっても「引き寄せてみて」同じ再現性があるとすれば、より精度が高まっていくと言うことなのです。
音については、これから大きな社会問題として取り上げられていくと思います。その時に向かって一緒に準備を始められたらと思います。
北国で生活しているときに、雪壁が背丈を超えるような場面での交差点の無音状態をイメージしつつ、これは視覚障害者にとって困ったことになるなぁと思いました。
昨今の地球温暖化の問題も手伝い、あるいは世界同時不況の中で電気自動車が話題になるにつれ、モーター音しかしないという自動車が広がる世界を思うとき、改めて音環境についてしっかりと考える必然を感じています。
感覚訓練を様々と工夫してきた私にとっても捨てておけない問題意識があります。音をきちんととらえるためには、耳を鍛えること。その耳を鍛えていく上では、静かな音環境から騒々しい音環境へと音を少しずつ加えていきながら、マスキングされがちな音を選択的に聞き分ける必要性があります。
このように書くと、簡単そうに思えますが、実はなかなかとらえにくいのです。
例えば視覚障害者誘導ブロックの形状や敷設の仕方、路面とのコントラストにも似たような問題が隠されています。路面にコントラストをつけても天候の状態により、見え方が全く変わってしまうのです。つまり、言いたいことは、自然現象や自然環境にかなりの部分依拠するということです。
音環境も、季節によって音の聞こえ方が変わります。雨が降ったときも、雪がシンシンと降っているときにも変わります。これからの季節蝉がジージーと鳴く際にも・・・。
そんな多様な日常生活の中で、必要最小限の音サインというものをしっかり考える。一面的なとらえ方ではなく、様々な条件の中で、「安全性」「快適性」「選択的」な音とは何かを普段から意識し、提言していく準備を今から始めておかないとと考えます。
もちろん、音ではなく振動を活用するという方法も考えられます。最近とみに思うことは、社会的な発言力のある人たちの、あるいは障害のある一部の人の意見が、何の検証もなくただ取り入れられていることに危惧を感じています。
一人一人が個性的であることを考えると、実は大いに議論しながらより沢山の人たちにとっていいものを創造していく。と言いつつ沢山のという曖昧さは禁物なのですが。
具体的に様々なタイプについて検証し、その上で共通項を拾い出していく地道な作業を重ねていくことに尽きると思います。
私自身、Eye MovementやSensory Awakeningを拡げてきたわけですが、それはある側面の一つにしか過ぎないと感じています。砂浜の砂のほんの一握りにも過ぎないことしかわかっていないと感じています。ですから、考えられる限りの一人一人の実験から経験知として生み出していければとも考えます。
とは言え、これすらも真実なのかどうか?ただ言えることは「ああ、そうか」という体験から出てくる実感は、多くはその方向性で間違いが少ないというものです。そして、他の人たちにとっても「引き寄せてみて」同じ再現性があるとすれば、より精度が高まっていくと言うことなのです。
音については、これから大きな社会問題として取り上げられていくと思います。その時に向かって一緒に準備を始められたらと思います。
カテゴリー: ロービジョン・セルフトレーニング
投稿者: SuperVisor
ある人から、書類の整理について質問があった。100円ショップのA4版のカラーボックスを3段重ねること、上段から重要度が高く迅速に処理するもの、中段は、数日間の余裕のあるもの、下段は2週間程度で処理するものと分けることをしてみようと提案させてもらった。同時に、やはり、100円ショップの色模造紙を用いてコントラストを補強すること、また、分類に当たってはある程度読み込む必要性を強調した。
もちろん、整理に当たっては、書類回覧の際に他の人を捕まえて読んでもらえれば遥かに楽なのだけれど、そこはなかなか難しいかも知れないねとも付け加えた。
電子カルテを見ようにも文字が小さかったり、その組織内でのお知らせ文が意外と読まれていなかったり、それぞれの属する組織によって悩みも多い。
話を聞きながら、自分自身の立ち位置についてきちんと把握しつつも、他に依存するのではなく、どのようにしたら同伴者、協力者になってもらうかの工夫も必要だと感じた。バリアというよりも、「こだわり」が限界を創っているような気がした。
学生だと定期テストなんかの処理に大いに戸惑うことがある。数学問題なんぞは、ルーペ(拡大鏡)で十分対応できる。が、国語の書き取りや長文読解は拡大読書器の扱い方一つでずいぶんと差が出てくる。同じ長文読解でも外国語はその点、シンプルな文字の組み合わせなので、拡大読書器を用いるにしても、より速読が可能である。 問題文の訂正がある場合には、単眼鏡が使いこなせることも条件だろう。
つまり、考えておきたいことは、様々な道具があるのだけれど、その道具立てを決定していく上でどのように既製のものをうまく取り込めるかだと思う。
もちろん、整理に当たっては、書類回覧の際に他の人を捕まえて読んでもらえれば遥かに楽なのだけれど、そこはなかなか難しいかも知れないねとも付け加えた。
電子カルテを見ようにも文字が小さかったり、その組織内でのお知らせ文が意外と読まれていなかったり、それぞれの属する組織によって悩みも多い。
話を聞きながら、自分自身の立ち位置についてきちんと把握しつつも、他に依存するのではなく、どのようにしたら同伴者、協力者になってもらうかの工夫も必要だと感じた。バリアというよりも、「こだわり」が限界を創っているような気がした。
学生だと定期テストなんかの処理に大いに戸惑うことがある。数学問題なんぞは、ルーペ(拡大鏡)で十分対応できる。が、国語の書き取りや長文読解は拡大読書器の扱い方一つでずいぶんと差が出てくる。同じ長文読解でも外国語はその点、シンプルな文字の組み合わせなので、拡大読書器を用いるにしても、より速読が可能である。 問題文の訂正がある場合には、単眼鏡が使いこなせることも条件だろう。
つまり、考えておきたいことは、様々な道具があるのだけれど、その道具立てを決定していく上でどのように既製のものをうまく取り込めるかだと思う。