明日、原職復帰を目指す50代の方にお会いする。中心暗点がある。中心が全く見えないわけでなく、すりガラスから外界をのぞいているような感じだ。白けた感じがあり、コントラストがはっきりしないと見づらい。(比較暗点)文字で例えれば、明朝体は見にくいが、ゴシック体やポップ体は見やすい。白地に黒文字よりも黒地に白文字が見やすい。
 この50代の男性は、スクリーンリーダーを自分のパソコンに入れている。訓練も若干受けているのだが、よりスキルアップをしたいとは今のところ思えないのだ。急激な見えづらさの変化に戸惑うとともに、中心が見えなくなってしまえばおしまいだと自分なりに感じているから、なかなか冷静には判断できないのだと僕は思っている。
 僕自身の印象としては、様々な人が関わりを持っていて、本人にとってベターな道を同伴してくれているように見受けられるのだけれども、本人自身は見えなくなったら仕事が出来ないと思いこんでいる。そういうときは、じっと本人が感じている漠然たる不安を聴くことと、同時に、周辺視野の活用が出来ることを体感してもらうことが大切なのだが、体感することは、なかなか難しい。
 あきらめた心では何も出来ないのだ。夢や希望という言葉に集約される「世の中で果たしたい自分なりの生き方」を自己の内に見いだせるかが鍵になる。そこには、「こうなったから仕方がない」という思いから離れ、「こうなってしまったけど、まだ可能性がある」と思える転換が必要である。
 転換が必要と言い切ったが、実際のところ転換するためにはエネルギーがいる。そのエネルギーのため方も含めて、出会いの中でどう伝えるかを考えようとしている。
 支援する側が、見えることの楽しさや素晴らしさを本心から伝えきれたとき、新しい着地点が見いだせるように思う。