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投稿者: SuperVisor
ロービジョン訓練ガイドラインの改訂版を作りはじめている。職場での訓練自体は、もう2年ほどしていない。今まで取り組んできたことを、もう一度謙虚に見直すにはいい機会とばかり、降り返ってみている。無心に訓練取り組んでいると、見落としていることが多いようだ。なかなか客観的に見るのは難しいけれど、新しいものは、少しは違った形になるのではと自分なりに期待している。
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投稿者: SuperVisor
毎日、まどろみの中でいつもと同じ音を聴いて起きていると思い込んでいた。実は同じ朝はない。同じようにいつもと同じだと解釈しているに過ぎない。新聞配達のバイクの音も、鳥の鳴き声も、同じような気配の中で感じているから、そう思っているのだ。
風景にしても、微妙に変わっている。木立の緑が、葉の輝きが太陽の光の中できらめいているのも同じように感じてしまう。雨上がりの葉の色と、朝の早いうちの葉の色と、いや午後の陽射しの中の葉の色とは、みんな違う。いや、曇った日や雨降りの日も葉の色は輝いている。その時、その場の色がそこにある。若かったころの青さと今の年齢の青は違っているように感じる。何よりもまぶしく感じるようになってきている。加齢現象の一つなのだが、みんなと同じ色を見ていると思っている。
音にしても、音に興味を持ち始めてから、随分、音から季節感や天気の移り変わりを感じるようになった。たとえば、雨が降っている。傘にあたる雨音は、雨粒や勢いで随分違っているのに、同じように感じている。いや、ただ雨音のイメージで聞いているかもしれない。
近頃の楽しみの一つに、同じ現象の中にも日々の新しさを感じ取りたい気分があって、鳥の鳴き声がどんなふうに聞こえているのかを意識して聞くようにしている。方向性や距離、どんなふうに飛んで行ったかの軌跡など、毎日同じではない。
いつもと同じような音であっても、いつもと同じ風景であっても違っている。ただ、ランドマークのように普段から同じように立っている看板や標識などは、そのもの自体が大きく変わるわけではない。とは言え、永久にそこに存在し続けるかと言うと変化することもある。
特に、経済的活動が著しい現代社会ではなおさら、数年のうちに店舗が変わっていたり、空き家になっていたり、そこにビルがたっていたりする。
道路自体は変わりがなくても、そこに存在している建物や景色が一変していることも多い。まして、日常生活の中で見慣れた風景だと、変化していくものやことに対して修正が加えられやすく違和感ない。しかし、たまに見る風景だと違和感を感じるとともに、変化に対して気づくことが多い。同じ風景を見るにしても、より普遍的なものを基準点にしておくことも必要だと感じた一日だった。
風景にしても、微妙に変わっている。木立の緑が、葉の輝きが太陽の光の中できらめいているのも同じように感じてしまう。雨上がりの葉の色と、朝の早いうちの葉の色と、いや午後の陽射しの中の葉の色とは、みんな違う。いや、曇った日や雨降りの日も葉の色は輝いている。その時、その場の色がそこにある。若かったころの青さと今の年齢の青は違っているように感じる。何よりもまぶしく感じるようになってきている。加齢現象の一つなのだが、みんなと同じ色を見ていると思っている。
音にしても、音に興味を持ち始めてから、随分、音から季節感や天気の移り変わりを感じるようになった。たとえば、雨が降っている。傘にあたる雨音は、雨粒や勢いで随分違っているのに、同じように感じている。いや、ただ雨音のイメージで聞いているかもしれない。
近頃の楽しみの一つに、同じ現象の中にも日々の新しさを感じ取りたい気分があって、鳥の鳴き声がどんなふうに聞こえているのかを意識して聞くようにしている。方向性や距離、どんなふうに飛んで行ったかの軌跡など、毎日同じではない。
いつもと同じような音であっても、いつもと同じ風景であっても違っている。ただ、ランドマークのように普段から同じように立っている看板や標識などは、そのもの自体が大きく変わるわけではない。とは言え、永久にそこに存在し続けるかと言うと変化することもある。
特に、経済的活動が著しい現代社会ではなおさら、数年のうちに店舗が変わっていたり、空き家になっていたり、そこにビルがたっていたりする。
道路自体は変わりがなくても、そこに存在している建物や景色が一変していることも多い。まして、日常生活の中で見慣れた風景だと、変化していくものやことに対して修正が加えられやすく違和感ない。しかし、たまに見る風景だと違和感を感じるとともに、変化に対して気づくことが多い。同じ風景を見るにしても、より普遍的なものを基準点にしておくことも必要だと感じた一日だった。
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投稿者: SuperVisor
窓を開け放しにして寝ている。23時も過ぎると風が少しずつ冷えていく。明け方の5時から6時くらいが一番過ごしやすいことに気がついた。その頃が身体にとって心地よい。日中汗だくになり、子どものようにあせぼが出ている。シッカロールをパタパタと身体につける。なかなか、これも心地よい。
ある人と眠りについて話した。目覚めるには熱いシャワーを浴びると一気に目が覚める。ぐっすり寝たい時には、39℃~40℃のお湯にゆったりとつかるといいなどと語り合った。
睡眠誘導剤は、よくないねとも。眠れなければ起きていればいつか疲れて眠れる。けれど、脅迫観念のせいか、眠れないと寝よう、寝ようとしてかえって眠れない。自律神経がうまく働かない時代なのかも?
自宅にはエアコンがない。職場は、エアコンがあり、寒いくらい効いている。それだけで、身体の調子がうまくない。とは言え、勤務が終わると自分のペースでいられるので楽。今年の夏も、暑さを楽しみつつ過ごしている。
ある人と眠りについて話した。目覚めるには熱いシャワーを浴びると一気に目が覚める。ぐっすり寝たい時には、39℃~40℃のお湯にゆったりとつかるといいなどと語り合った。
睡眠誘導剤は、よくないねとも。眠れなければ起きていればいつか疲れて眠れる。けれど、脅迫観念のせいか、眠れないと寝よう、寝ようとしてかえって眠れない。自律神経がうまく働かない時代なのかも?
自宅にはエアコンがない。職場は、エアコンがあり、寒いくらい効いている。それだけで、身体の調子がうまくない。とは言え、勤務が終わると自分のペースでいられるので楽。今年の夏も、暑さを楽しみつつ過ごしている。
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投稿者: SuperVisor
ある人が音の絵本「動物編」を購入したとのこと。なかなかの優れものらしい。まだ、僕自身は聴いたことがない。子どもが幼かった頃、動物の鳴きまねをせがまれたことを思い出した。できるだけそっくりまねようとしたものの、なかなかこれが、難しい。コオロギとか、アシカなんかは動物園に行くたびにまねるようにした。少しは似ていたのか、よくせがまれたことが懐かしく思い出される。
絵はもっと苦手で、馬や牛、ライオンなんかは似て非なるものだった。最近は、その特徴をよく観察して書くようにしているので、かってより、上手くなったと自負しているものの、子どもも成長して、絵なんか見てもくれない。
音や絵をできるだけ正確にとらえて表現することは、観察する力が必要だ。これには、注意の集中が必要だ。じっくりと感覚器で感じることが前提になる。わかったつもりが、じはよく聴いていなかったり、見ていなかったりする。あるとき、普段見慣れている自宅の掛け時計を書いてみようとした。イメージとしては自分なりに正確に把持していると思っていたが、細かい点について今一つ正確さに欠けていた。
そういえば、こんなこともあった。まだ、30代前半のころ。一年近く髭を伸ばしていた。ある日、面倒になって思い切って剃った。職場の人たちが気がついたのは、2日ほどたってからだった。ところが、ロービジョンの人たちは、顔を見るなり「どうしたんですか?」と聞かれた。初めは、なんとも思わなかったけれど、顔を認識しつつも、イメージが先行しているか若しくは、注意が散漫であると気がつかないのではと思うようになった。
ロービジョン訓練や一緒に作業や行為をしている時、ちゃんと基準点を作って見ていると感じることがある。ものを見たり、聴いたりするときに、自分なりの基準点に基づいて、行為している。いくつかのポイントを基に階層化し、それがなんであるかを判断するわけだが、その基準点も精度が大切になだろう。
漠然と見聞きするよりは、意図的に見聞きすること。それを意識化と表現している。
Eye Movementも確かな基準点がある。滑らかに水平に、そして垂直に動かすことが大切で、かつ、固視することなのだ。何となく見えているというのは、脳が補正していることが多い。
音にしても多様な世界があって、日々、耳を澄ますと様々な世界に気がつかされる。もっともっと、日常的に楽しみたいものだ。
絵はもっと苦手で、馬や牛、ライオンなんかは似て非なるものだった。最近は、その特徴をよく観察して書くようにしているので、かってより、上手くなったと自負しているものの、子どもも成長して、絵なんか見てもくれない。
音や絵をできるだけ正確にとらえて表現することは、観察する力が必要だ。これには、注意の集中が必要だ。じっくりと感覚器で感じることが前提になる。わかったつもりが、じはよく聴いていなかったり、見ていなかったりする。あるとき、普段見慣れている自宅の掛け時計を書いてみようとした。イメージとしては自分なりに正確に把持していると思っていたが、細かい点について今一つ正確さに欠けていた。
そういえば、こんなこともあった。まだ、30代前半のころ。一年近く髭を伸ばしていた。ある日、面倒になって思い切って剃った。職場の人たちが気がついたのは、2日ほどたってからだった。ところが、ロービジョンの人たちは、顔を見るなり「どうしたんですか?」と聞かれた。初めは、なんとも思わなかったけれど、顔を認識しつつも、イメージが先行しているか若しくは、注意が散漫であると気がつかないのではと思うようになった。
ロービジョン訓練や一緒に作業や行為をしている時、ちゃんと基準点を作って見ていると感じることがある。ものを見たり、聴いたりするときに、自分なりの基準点に基づいて、行為している。いくつかのポイントを基に階層化し、それがなんであるかを判断するわけだが、その基準点も精度が大切になだろう。
漠然と見聞きするよりは、意図的に見聞きすること。それを意識化と表現している。
Eye Movementも確かな基準点がある。滑らかに水平に、そして垂直に動かすことが大切で、かつ、固視することなのだ。何となく見えているというのは、脳が補正していることが多い。
音にしても多様な世界があって、日々、耳を澄ますと様々な世界に気がつかされる。もっともっと、日常的に楽しみたいものだ。
空港で。夏休みになったせいか、たくさんの子供たちと巡り合う。搭乗までの待ち時間、目の前を過ぎ去っていく人たちを眺め見る。発展途上の子供たちの動きは面白い。父親や母親を気にしつつも、ふっと見失うことがある。しばらく、うろうろと探すのだが、見つけられないことがままある。考えてみれば視力が完成するのは、6歳前後というから、見落とす可能性がないともいえない。その子ども達に共通しているのは、注意の集中や継続性にあるのだと思う。ふっと、注意が途切れると、いままでやっていた行為の、その意味を見失うのではないか。逆説的に言えば、注意の集中、分散、維持と言うのは、成長過程の中で身につけていくもので、中途視覚障害になるとその注意の向け方がうまくいかないことからも、眼が使いにくくなっているのかもしれない。
子ども達を飽きずに見つめていると、一つ一つのことに集中している時間は驚くほど短い。親御さんたちも、その次々に展開していく子どもの興味の転移に戸惑いつつも応えている。
子ども達を飽きずに見つめていると、一つ一つのことに集中している時間は驚くほど短い。親御さんたちも、その次々に展開していく子どもの興味の転移に戸惑いつつも応えている。
当直室からの窓のフレームから木の幹らしいのが3本、窓の左側下から1/2ほどのところに黒っぽい感じで伸びていて、窓の中央、下から1/3のところに左から右側へ窓枠いっぱいに緑が横切っている。真正面はクリーム系の薄汚れた壁。左端にぼくのワイシャツ、右端はカーテンがまとめられている。窓から2m程離れた位置から見た周辺視の感じである。
視線を少しずつ上にあげていくと、空らしい一画が浮かび上がってくる。それとて、明確な色を感じているわけでもない。
視線を少しずつ上にあげていくと、空らしい一画が浮かび上がってくる。それとて、明確な色を感じているわけでもない。
あまりにも暑いと感じたので、ベランダに打水をした。窓際には洗濯物を干した。涼しげな風がほんの数分のうちに、窓から入ってくる。まだ、扇風機を使っていない。身体的には、クーラーの風は馴染まない。汗が額や首筋に伝わっていくのは、決して好ましいとは感じてはいない。が、自然に汗腺からジワーッと浮いてきて、珠になっていき、やがて、流れていくのを見つめていると、梅雨時期の、葉っぱに珠のようになった雨粒がある大きさになって流れるさまと重なる。
今日は、夕方から雲が空に広がり始めている。雨が降るとは思えない。蒸し暑くなるに違いない。けれど、日中の陽射しがなくなったぶん、しのぎやすい。
子供のころ、日中に昼寝をしのが、理に合っているように思う。寒い時期には、音は、凛として、冷たく遠くから伝わってくる。いまの暑い時期は、陽炎のような感じそのもので、ムワッと伝わってくる。比較的近くの音が気になる。
眼的には、陽射しが鋭く眼に突き刺さってくるようだ。まぶしさを一段と感じるし、何よりも眼が渇くような感じだ。部屋の蛍光灯の光さえ、鋭く感じる。もちろん、発光する熱もあるのだろうが、常夜灯にしているほうが涼しげである。
部屋の明かりが弱いと、周辺視野を意識することも多い。色彩が急激に失われるものの、普段から見慣れているせいもあり、割と自然な感じでものが見えている。しかし、実際の網膜に映るのとは違う。大きなものは、已然、そのものであることを主張しているかのようでもある。
今日は、夕方から雲が空に広がり始めている。雨が降るとは思えない。蒸し暑くなるに違いない。けれど、日中の陽射しがなくなったぶん、しのぎやすい。
子供のころ、日中に昼寝をしのが、理に合っているように思う。寒い時期には、音は、凛として、冷たく遠くから伝わってくる。いまの暑い時期は、陽炎のような感じそのもので、ムワッと伝わってくる。比較的近くの音が気になる。
眼的には、陽射しが鋭く眼に突き刺さってくるようだ。まぶしさを一段と感じるし、何よりも眼が渇くような感じだ。部屋の蛍光灯の光さえ、鋭く感じる。もちろん、発光する熱もあるのだろうが、常夜灯にしているほうが涼しげである。
部屋の明かりが弱いと、周辺視野を意識することも多い。色彩が急激に失われるものの、普段から見慣れているせいもあり、割と自然な感じでものが見えている。しかし、実際の網膜に映るのとは違う。大きなものは、已然、そのものであることを主張しているかのようでもある。
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投稿者: SuperVisor
実家から電話がかかってきた。8月13日(金)の法事のこと。亡くなった祖母は、生まれてから大学生4年生まで可愛がってもらった記憶がある。夏になると思い出すこと。西瓜が好きで、丸々一つ食べてみたくなった。その話を聞いたのだろう。差し入れしてくれた。小学校学校4年せいだった僕には丸々一つ食べるのは大仕事だった。いまでも、夏になるとその思い出がふとよみがえる。もう一つ。土用の丑の日にウナギを食べる習慣はないが、夏になると二年坂にある甘味処で、しるこシェイクを食べ、祇園にあるウナギ店に連れて行ってくれた。しるこの甘さとウナギの香ばしさが、記憶の中に残っている。
祖父については、父が中学入学の年に亡くなっているので話では知っているが、明確なイメージはない。イメージをいだくには、やはり実体験することの持つ意味は大きい。
今回、祖父と祖母の法事をするとのことだった。祖父の人柄も含めて、イメージ化する上での情報が得られるかが、少し楽しみである。
祖父については、父が中学入学の年に亡くなっているので話では知っているが、明確なイメージはない。イメージをいだくには、やはり実体験することの持つ意味は大きい。
今回、祖父と祖母の法事をするとのことだった。祖父の人柄も含めて、イメージ化する上での情報が得られるかが、少し楽しみである。
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投稿者: SuperVisor
保有視覚機能の活用の第一のポイントは、視野の意識化です。第二のポイントは、他の保有感覚の活用にあると思います。求心性狭窄の場合、周辺の視野が活用できないわけで、その際には、聴覚によるsaccadic eye movementを行う必要があります。そのためには、smooth pursuit eye movementがうまくできなければ、目標とする位置に眼を向けることができません。あるいは、一方の眼で視覚対象をとらえることができない場合は、距離感を把握するため、jump convergenceも必要となります。
これらの機能は、本来、我々が持っている力です。
では、他の感覚をうまく活用するにはどのようにすれば良いのかという問いかけが出てきます。我々が、聴覚や触覚、運動感覚をうまく活用するには、注意の集中と配分(選択的分散)をする必要があるようです。耳には耳の、手や足には、手や足の持っている力があります。しかし、視覚が多くの情報を瞬間的に把握するのに対して、これらの感覚は、繊細です。と言うことは、できるだけ視覚の束縛を解く必要が出てきます。
前回のテーマと重なり合うのですが、意識の沈黙が必要です。ここで言う意識の沈黙とは、外的な刺激に対して、静かに受け流していくような感覚です。
わかりやすく言うならば、音や、感触、温度などを、あれこれ思いめぐらさず、感じていくような感じです。視覚からの刺激を少なくするうえで、半眼にして、耳や感触に意識を向けていくことに尽きます。
感覚系を味わうには、やはり、視覚との絡みの中で、取り組む必要がありそうです。
たとえば、今日もとても暑い日ですが、汗の流れていくままに感じてみる。鳥の鳴き声に注目して、どれくらいの距離からどれだけの鳥が鳴いているのかなどを感じ取ることが、これらの感覚を鍛えていくうえで、大切なものでしょう。
感覚器は、感じようとすればするほど、少しずつですが開いていくのです。そのためにも、意識の沈黙を大切にしたいものです。
sacaide
これらの機能は、本来、我々が持っている力です。
では、他の感覚をうまく活用するにはどのようにすれば良いのかという問いかけが出てきます。我々が、聴覚や触覚、運動感覚をうまく活用するには、注意の集中と配分(選択的分散)をする必要があるようです。耳には耳の、手や足には、手や足の持っている力があります。しかし、視覚が多くの情報を瞬間的に把握するのに対して、これらの感覚は、繊細です。と言うことは、できるだけ視覚の束縛を解く必要が出てきます。
前回のテーマと重なり合うのですが、意識の沈黙が必要です。ここで言う意識の沈黙とは、外的な刺激に対して、静かに受け流していくような感覚です。
わかりやすく言うならば、音や、感触、温度などを、あれこれ思いめぐらさず、感じていくような感じです。視覚からの刺激を少なくするうえで、半眼にして、耳や感触に意識を向けていくことに尽きます。
感覚系を味わうには、やはり、視覚との絡みの中で、取り組む必要がありそうです。
たとえば、今日もとても暑い日ですが、汗の流れていくままに感じてみる。鳥の鳴き声に注目して、どれくらいの距離からどれだけの鳥が鳴いているのかなどを感じ取ることが、これらの感覚を鍛えていくうえで、大切なものでしょう。
感覚器は、感じようとすればするほど、少しずつですが開いていくのです。そのためにも、意識の沈黙を大切にしたいものです。
sacaide
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投稿者: SuperVisor
2010九州ロービジョンフォーラムin佐賀に出かけてきた。今回は、「日常生活から観た視野・視力」と「視野について考えようー周辺視野はこんな風に活用できる」の講演と講義をした。随分、ブログにもご無沙汰していたけれど、視野についての考え方は、深まってきている。
周辺視野は、一般的には、中心視野に比べて軽視されがちであるが、中心視野が、その本来の力を発揮するためには、周辺視野で全体をつかまないと、個別的に詳細に把握することが難しい。
網膜が世界全体を把握していても、周辺視への注意の集中や分散がうまくなされないと、中心でとらえた部分視を全体だと認識してしまう。これは、あくまで仮説にすぎない。が、視覚障害で視野に障害をもつ人たちとの実践の中から感じられることである。
では、中心視を抑制して、周辺視を活用するにはどのようにすれば良いのか?
長年、どう表現すれば伝わるのかを求めてきた。現段階での表現。これだって、不十分に違いない。しかし、まずは、言葉に現わさなければ伝わらないので、敢えて言葉にしてみよう。
ぼくは、京都出身なので、幼いころから仏像を見るのが自然だった。その仏像の目は、パッチリ開いているわけでも、全く閉じているわけでもない。半眼である。もちろん、仏像は立像もあれば座禅しているものもある。
その視点はどこにあるのだろう?
おそらく、視点の先は2mから3m先にあり、かつ、半眼にするために、自然と中心視野が抑制されることとなる。ということは、周辺視野に対して、準備段階ができていることになる。つまり、世界を中心視でとらえようとするのではなく、周辺視でとらえようとしているのではないか?そこで、色々考えてみた。
いま、一番伝わりやすい表現は、「電車に乗ったら、座席に座ってみよう。反対側に座っている人の膝のあたりを見つめよう。目は半分ぐらい開けるような感じ。視線を下げ、隣に座っている人を感じてみる。中心視が働きそうになったら、腹式呼吸をしながら、真横を感じるようにイメージしてみよう。」
普段、周辺視などを意識していない。しかし、意識化することで、周辺視野の力が働き始める。顔をまっすぐに保った状態で、隣の人の粗大運動が手に取るようにわかる。真正面の人よりも、周辺で動くもの、大きな静止体もとらえることができる。中心暗点のある人たちが歩きやすくなるのはこの視野なのだ。
そう感じて、様々な周辺視野がある人たちに実験してもらうと、今まであまり感じていなかったこれらのことが、はっきりと意識にのぼることがわかってきた。
これから、その事実について深く検証していく予定である。
まずは、トライしてみてはいかがだろうか。
周辺視野は、一般的には、中心視野に比べて軽視されがちであるが、中心視野が、その本来の力を発揮するためには、周辺視野で全体をつかまないと、個別的に詳細に把握することが難しい。
網膜が世界全体を把握していても、周辺視への注意の集中や分散がうまくなされないと、中心でとらえた部分視を全体だと認識してしまう。これは、あくまで仮説にすぎない。が、視覚障害で視野に障害をもつ人たちとの実践の中から感じられることである。
では、中心視を抑制して、周辺視を活用するにはどのようにすれば良いのか?
長年、どう表現すれば伝わるのかを求めてきた。現段階での表現。これだって、不十分に違いない。しかし、まずは、言葉に現わさなければ伝わらないので、敢えて言葉にしてみよう。
ぼくは、京都出身なので、幼いころから仏像を見るのが自然だった。その仏像の目は、パッチリ開いているわけでも、全く閉じているわけでもない。半眼である。もちろん、仏像は立像もあれば座禅しているものもある。
その視点はどこにあるのだろう?
おそらく、視点の先は2mから3m先にあり、かつ、半眼にするために、自然と中心視野が抑制されることとなる。ということは、周辺視野に対して、準備段階ができていることになる。つまり、世界を中心視でとらえようとするのではなく、周辺視でとらえようとしているのではないか?そこで、色々考えてみた。
いま、一番伝わりやすい表現は、「電車に乗ったら、座席に座ってみよう。反対側に座っている人の膝のあたりを見つめよう。目は半分ぐらい開けるような感じ。視線を下げ、隣に座っている人を感じてみる。中心視が働きそうになったら、腹式呼吸をしながら、真横を感じるようにイメージしてみよう。」
普段、周辺視などを意識していない。しかし、意識化することで、周辺視野の力が働き始める。顔をまっすぐに保った状態で、隣の人の粗大運動が手に取るようにわかる。真正面の人よりも、周辺で動くもの、大きな静止体もとらえることができる。中心暗点のある人たちが歩きやすくなるのはこの視野なのだ。
そう感じて、様々な周辺視野がある人たちに実験してもらうと、今まであまり感じていなかったこれらのことが、はっきりと意識にのぼることがわかってきた。
これから、その事実について深く検証していく予定である。
まずは、トライしてみてはいかがだろうか。