ある人が音の絵本「動物編」を購入したとのこと。なかなかの優れものらしい。まだ、僕自身は聴いたことがない。子どもが幼かった頃、動物の鳴きまねをせがまれたことを思い出した。できるだけそっくりまねようとしたものの、なかなかこれが、難しい。コオロギとか、アシカなんかは動物園に行くたびにまねるようにした。少しは似ていたのか、よくせがまれたことが懐かしく思い出される。
絵はもっと苦手で、馬や牛、ライオンなんかは似て非なるものだった。最近は、その特徴をよく観察して書くようにしているので、かってより、上手くなったと自負しているものの、子どもも成長して、絵なんか見てもくれない。
音や絵をできるだけ正確にとらえて表現することは、観察する力が必要だ。これには、注意の集中が必要だ。じっくりと感覚器で感じることが前提になる。わかったつもりが、じはよく聴いていなかったり、見ていなかったりする。あるとき、普段見慣れている自宅の掛け時計を書いてみようとした。イメージとしては自分なりに正確に把持していると思っていたが、細かい点について今一つ正確さに欠けていた。
そういえば、こんなこともあった。まだ、30代前半のころ。一年近く髭を伸ばしていた。ある日、面倒になって思い切って剃った。職場の人たちが気がついたのは、2日ほどたってからだった。ところが、ロービジョンの人たちは、顔を見るなり「どうしたんですか?」と聞かれた。初めは、なんとも思わなかったけれど、顔を認識しつつも、イメージが先行しているか若しくは、注意が散漫であると気がつかないのではと思うようになった。
ロービジョン訓練や一緒に作業や行為をしている時、ちゃんと基準点を作って見ていると感じることがある。ものを見たり、聴いたりするときに、自分なりの基準点に基づいて、行為している。いくつかのポイントを基に階層化し、それがなんであるかを判断するわけだが、その基準点も精度が大切になだろう。
漠然と見聞きするよりは、意図的に見聞きすること。それを意識化と表現している。
Eye Movementも確かな基準点がある。滑らかに水平に、そして垂直に動かすことが大切で、かつ、固視することなのだ。何となく見えているというのは、脳が補正していることが多い。
音にしても多様な世界があって、日々、耳を澄ますと様々な世界に気がつかされる。もっともっと、日常的に楽しみたいものだ。