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過去の投稿

May 2009 の投稿一覧です。
 Sさんの訃報を耳にした。Sさんには、直接お出会いしたことは一度もない。
知り合いのMさんを通じて間接的に、その人となりを知っているに過ぎない。けれども、僕自身は随分支えていただいた感がある。
 まだ、若かりし頃で、ロービジョンケアに対し駆け出しではあるが熱い情熱を抱いていた頃のことだ。全国各地の当事者のロービジョンケアの、あるいは、専門家の勉強会に要請があったら断らずに手弁当で歩き回っていた。先のMさんが見かねてくれたのだろう。Sさんから飛行機の優待券をもらってくれた。結構、Sさんは毒舌家だったと聞いているが、折に触れてSさんからその優待券を調達してくれた。
 思えば、有形無形の「心遣い」にどれほど支えられてきたのかを、その訃報を聴いたときに思った。その時々は、精一杯走っているので、気づけないことも多い。あらためて、立ち止まって考えたりするのは、悲しいけれどその人がいなくなってからだ。
 いま、専門家の一人として活動できる素地を確かに創っていただいたのだと感じ、心の底から感謝するとともに、故人の冥福を祈念したい。
 窓を開けると数日来の暑さが嘘のように涼しい。曇っているせいもあるが、風が欠航吹いているからか、肌寒い感がある。今日は、普段たまっている仕事を片付けにセンターに出勤した。
 机の整理や、たぶんもう二度と見ない書類をシュレッダーにかけていたら、「転勤するんですか?」と隣の課の職員が声をかけてきた。「そんな分けないだろう」と心の中でつぶやきつつ、「いつでも、直ぐに去っていけるだけきっちりとした仕事してるのかなぁ」と反省する羽目になった。僕自身の感覚で一番強いのは、「まあ、なんとかなる」「そのうち、片付ければいいよ」というものである。
 考えてみると、感覚というと、生理的な感覚もそう、心の傾向もそう。「まあ」という猶予感覚というのは、心の向きそのものである。つまり、こころの動きも感覚としてとらえるとしたら、案外おもしろい研究なんかもできると一人ごちなのだ。
 
 風が心地よく感じる季節になった。風の音を、風の息吹を感じることが好きだ。色々な生活環境の匂いも運んできてくれる。そう言えば、香りに惹かれていた時期があったことを思い出した。
 京都で生まれ、京都で育つ中で、お香の香りというのは、原初体験としていまも残っているのだろう。それが、匂いに関心を抱く原点だと考えもする。あるいは又、日常生活の中で、季節が移ろいゆく中で、香りに興味を持つことになったのかも知れない。
そう言えば、香道という日本的な粋な遊び?がある。たいていは、源氏物語の名前で表現するのだが、なかなか粋なものだ。匂いを当てることは結構簡単なようで難しい。
 ところで、いまの季節の匂いを象徴するものは何だろう?いま住んでいる土地の匂いは?自分自身の匂いはどんなものかな?ふと、そんなことを考えた。
 土地土地の匂いというのは確かにある。博多や函館の生活の中では、磯の香りやイチゴ畑、キャベツ畑の匂いや、ラベンダー、桜の匂い、雪の匂いが直ぐそばにあった。
 魚の匂いもそうかも知れない。いまの生活の中では、土の匂いや緑の香りがある。それと料理屋から流れ出てくる匂い。結構、スパイスのきいた匂い。ぼーっと町並みを歩いていても、いつもと同じ場所に来ると香ってくる。
 自分自身でゲーム感覚として楽しんでいる。匂いのオリエンテーリングも悪くはない。
 まだまだ身についてはいないけれど、意識化すると確かに感じるものである。明日、目覚めたときにどんな香りに満たされているかを実験してみよう。
 誰もいない職場。日常から非日常に変わる貴重な一瞬だ。人の容積もなく、ただがらんとした中で「シャカシャカ」とキーボードを叩く音やパソコンのビープ音、コピー機の「ウィーンッ」という待機音、「カチッカチッ」という時計の音など普段仕事中には気づかない音に包まれている。
 トイレにでも移動したのか、ゴミ箱を「コトン」と置くような音もかすかに聞こえる。事務所内は妙に明るいことに気づいた。節電、節電とつぶやきながら、蛍光管を次々に切って自分の周りだけを明るくした。
 目の前にあるディズニーのポスターがくすんで見える。青系が見づらい感じ。黄地に黒はかえって見にくく、寧ろ黒地に白は見やすいなあなんて、「フムフム」と確認してしまう。白地に黒は最悪かな。
 窓を開け放つと涼しい風が「そよそよ」と室内に入ってきます。日中の蒸せるような、汗がじんわりとにじみ出てくる不快感から解放される一瞬です。
 そんな中である種の音や人の声に耳が傾むくと、グンと意識の上に立ち上ってきます。心理学で言うカクテルパーティ効果というものです。意識が向くというのは、対象に対して焦点するということです。日常生活の中では、注意を集中し持続させることは、ことのほか難しいのが現状で、エントロピーの第二法則のごとく、注意が散漫化する方向にあるかと思います。
 生活行動の場面では、注意をどう分散するか、むしろ分配できるかがとても大切です。言葉を換えると、活用すべき感覚をどのように選択していくのかが問われています。最初は意識して注意を向けなければならない。そのうち、その場面場面での注意の向け方のコツがつかめてきます。実際の生活では、ずっと注意を維持することはできませんから、所作を滞らずに流れるようにするためにも、適切な注意の向け方、分配が重要になってきます。
 さて、歩行訓練の中に、SD訓練というのがあります。スタート地点から目的地までの地図を頭の中に描きルートを選択して歩くわけです。目標になるものを定位し、その手がかりから自身の位置を割り出し、次に立ち現れてくる次の目標に向かって移動し・・・と言うのを繰り返しながら最終的に目標地点に行くわけです。
 同時に往路と復路は逆になりますので、地図を回転させるなど行うのですが、ここで、大切になってくるのが、注意の集中と分散なのです。
 私たちの日常生活では、注意が不足していることで、失敗したりすることも多くあります。その原因をたどると、「注意」のありようが問われていると思えてなりません。
 
カテゴリー: 総合
投稿者: SuperVisor
夏の陽射しを感じる日となった。萌葱色の葉がすっくと天に向かって輝いている。
眩いばかりの光。室内から屋外を眺めても、「白けた」感じが強い。視覚障害の一人一人の感じ方も様々で、「眩しい」と感じる人もいれば、「ちょうどいい」という人もいる。
一般的に視野が狭くなると「暗い」という人がいるけれど、「周辺視野がある程度残っていると「まぶしさ」を感じたりする。
本当に一人一人の見え方が違うのを感じる季節でもある。
 5月になり、利用者の一人一人の個性が徐々に現れてきているようだ。自然の中の一木一草に個性があるように、それぞれの歩んできた人生の、その風景の違いも含めて、個性に溢れている姿を感じるのはとても楽しい。
 違いと言うことから考えてみると、音や触れることも実に個性的だと思う。
 例えば音を聴いて、そこから連想されるイメージは一人一人異なっている。感覚訓練という名の訓練を最初手がけたときにも、そんな印象を抱いたものだ。「あなたが、慣れ親しんでいる波の音を擬音であらわすとどんな音ですか?」そう問いかけると、それぞれの人が体験してきた音がまず表出してくる。日本海側の荒波がイメージとしてある人は「ドドーン」という音であったり、穏やかな瀬戸内地方で育った人は「ザーザーン」とか「チャプチャプ」であったりする。あるいは、教科書でならった「ザブンザブン」。その人が体験してきた「音風景」がそこはかとなく現れてくるのを感じさせられた。
 実際に波の音を聴くと、様々な音風景があるのだけれど、一度イメージしたり、擬音化するとなかなか音を正確にとらえることも難しくなる。イメージが創りあげられていくからだ。それゆえ、感性を豊かにしていくには、とらわれないことが大切に感じるのは僕だけだろうか?
 翻って、実はわれわれの日常生活を工夫していくには、汎化されることも大切である。パターン化することも、習慣化することも、智慧が隠されている。知識というのは、努力することで身についていくものだが、無駄のない「流れるような」自然さの中に智慧の奥義があるように感じている。
 無駄がないというのは、余分なことをせず、ただ淡々と行うことなのだと思うが、簡単なことほど難しい。
カテゴリー: 総合
投稿者: SuperVisor
 一昨日の雨の日。勤務の休憩時間に、いつもの場所で煙草を吸っていた。中庭にバラの花やこの季節の花が植えられている。赤や白、青や黄、オレンジと緑のバランスも良く、ボーッとするにはとてもいい空間だ。そこに、聴覚障害の訓練生が来た。
 彼女はスーッとこの空間に入ってきて、しばらく花壇の方を見つめているかのように思えた。そんな中でスーッと腕を伸ばしたかと雨粒を手のひらに受けはじめていた。雨音が喫煙スペースのルーフにあたって「ボトボトボト」とかなりの音を立てていた。
 ふと目をやると両耳に補聴器をつけているのが見て取れた。音としての感覚がどれほど正確に捉えられているのかはわからない。けれど、その音をも含めて手のひらで感じようとする姿勢に、ふと引き込まれていった。
 日常生活の中で、些細なことをどれだけ感覚を用いて実感しているだろう?音を聴いて何となくわかったつもりになっているし、触れて何となく感じているつもりになっている。けれども、一つ一つの出来事に対して、味わうように感じていることが少ないなと反省もしたりした。
 ぼくは、毎日、ラベンダーやブルーベリーの入った「コロボックル」という名の紅茶を飲んでいる。香りがとても気に入っているが、朝の出勤前の、その慌ただしさの中では、味わうと言うよりも単に習慣として飲み干している感が強いと思う。
 ゆったりとした時間の中では、口腔や鼻腔の感覚を、香りや味わいとして楽しんでいるにも関わらず・・・・・・。 
 音のしずくに囲まれているぼくにとって、雨を感じるために、手のひらにあたる雨粒の一つ一つの振動や刺激を味わう経験をしてこなかったんだと思った。確かに雨粒の身体にあたるその感覚は雨の強弱によって違っていたと思い出しながらも、もっと感じてみたい感覚の一つとしてこころの中に残った。と同時に「自分自身の感覚を味わうにしても、やはり意識的に感じるようにしないと、」改めて感じる瞬間だった。
 
カテゴリー: 総合
投稿者: SuperVisor
 昨夜NHKテレビで「復活した脳の力」を見た。脳科学者が脳卒中から復帰する様をドキュメンタリーで描いたもので、脳卒中の進行や回復の過程において、自分自身を相対化し、意識化してとらえている様にプロフェショナルさを感じた。と同時に、意識化すること、自らを相対化することの難しさも改めて感じた。
 視野の意識化という言葉を使い始めてもう10年以上の歳月が経つ。絶対暗点としての中心暗点がある場合と比較暗点の場合では、視野の意識化にも階層(レベル差)があり、気づき方も違っている。必ずしも自分にとって使いやすくて感度のいい部分を使っているとは限らないからだ。求心性視野狭窄があって、耳側に視野がかなり残っていても、中心に焦点していると周辺視野を十分に活用することができない。
 テレビを見ながら、具体的に「自分の状態をわかりやすく説明する」ことの意味を考えもした。
 さて、テレビの中で本人自身が、脳卒中が生じてから意識不明になる過程を、時間軸の中で語っているのを聴きながら、一人の体験が全体の体験へと昇華することを実感した。少なくとも、発症したらどのような状態が次々と起こってくるのかが、イメージできるからである。
 更に、8年というリハビリテーション期間を経て現在に至るまでの時間の中で、身体機能の回復されていく順が明確にわかり、努力し続けることの意味を見いだせることのすばらしさを感じた。
 回復や機能の維持といったことでは、個体差や障害の程度により差が生じることは否めないが、あきらめないで取り組むことで「開けゆく道がある」に違いない。
 セルフトレーニングは地道な取り組みである。毎日、毎日、同じような繰り返しの中に、意味を見いだすことはとても難しいのかも知れない。現代社会は、効率性をまず第一義とするため、すぐに効果が現れないと意味のないものとして扱うからだ。
 実らないように思う努力の積み重ねの中にも、実は大切なものが隠れていることをテレビの中の脳科学者の人生が教えてくれてたように思っている。
カテゴリー: 総合
投稿者: SuperVisor
 5月の連休。今年の連休は、地味に関東で過ごす日々だった。お陰で、室内の整理や普段手抜きになりがちな料理も楽しみながら「ゆったり」とした時間を過ごせた。
 雨がしとしとと降り、自宅周辺の新緑も、水を得てかなお一層の輝きを増し、その美しさに眼を見張る思いもした。何とも言い難い緑の、その背後から立ち現れる息吹、馥郁たる香りとともに、四季があることの有り難さを感じもした。
 快晴の雲一つない光景の中での街路樹とその空間は、コントラストが鮮やかではあるが、まぶしさの原因にもなる。雨降りや曇天時の、光が押さえられた中での街路樹と空との境目や木々の陰影は、至って柔らかく穏やかに感じる。湿度のせいもあるのか、少しぼんやりとした境界線もなかなか味わいがあっていい。山水画に見られる雨中や霧巡る雰囲気はロービジョンの一人一人の見え方に近く、コントラストがあればより稜線を明確にしてくれるように感じ、曇りの日の見やすさの一因であると感じさえもした。
 もちろん、雨に濡れた木々や草花、土の匂いもまた、
ほのかな安らいだ香りを引き立ててくれる。煌めく、あるいは燦々と射す陽の中でのあでやかなコントラスト、しかし、全体的には、やや白けるような強さに比べて、この数日の天気は、柔らかな光の中で、自然な色合いを感じさせ、むしろ、すっきりとした印象を抱いた。
 陰影を楽しむことは、むしろ、ロービジョン者にとっても大切な経験かも知れない。適切な光量の中で、見やすさを追求していくと、心地よいコントラストを見いだすことができるといまでも考え、実際に日常的な工夫もしているのだけれど・・・・・・。
 また一部では間接照明についてあまりいい意見を聞かないこともある。しかし、照明は人工的に制御することが可能であるため、間接照明を上手く活用することは、日常生活を豊かにする可能性もあることも考えてみたい。
 ヨーロッパの学会に参加する度に思うのだが、実に、照明の活用がうまい。日本的に言うと「もっと光を!」となろうが、ロービジョンの人たちから「暗い」とは聴かなかった。光の扱い方を工夫することで、解決できることは多い。光を足したり、引いたりする感性も重要だと思う。
 そんなことを久しぶりに考えている今日この頃である。
カテゴリー: 総合
投稿者: SuperVisor
 久しぶりに、イカの乾燥塩辛やホタテ、たこの足の薫製を購入しにでかけた。薄曇りの中、汗ばむような暑さに少し参っている。
 ここ数日、暇な時間があるのか、色々なことを考えている。「専門家」としての立ち位置についてだ。
 それぞれの「訓練」というのは、単純だけれど洗練されている。それは「型」というべきもので、様々な実践や取り組みの中から不必要なものをそぎ落とされて、立ち現れてきたものだからだ。しかも個々の動作は、その目的のために、基本と言うべき「型」を編みだし、かつその動きの一つ一つの所作はとても美しい。
 無駄が省かれていること、「流れ」るような身体的な動きがが美しさを生み出す。
 拡大鏡を使用する時に、ハンドラィティングや歩く時、食事の場面でも、所作の流れが美しさを生み、傍らでその動きに接していると美しさを感じるのである。
 どんなものにも、それが存在するには「理由(わけ)」があり、その理由について極めていくためには、単純な動作の繰り返しが何よりも大切だと考えている。基本こそが応用力や新たな転換を生み出すものだと思う。
 日常的な訓練も含めてトレーニングを振り返ってみて、果たして、どれだけ黙々と単純な基本を大切にしているだろうか?指導する側として、一部の妥協もなく違っていることに対して、接しているだろうか?
 本当に「訓練」や「実験」をする人たちに対しての、より深く、時間を十分にとれる場が必要だと感じ、その場の緊張感と達成感をサポーターが感じられれば、状況も変わってくるだろう・・・。
 今までの実践の中で、真に困惑しているロービジョンの人たちは、アポイントメントを自ら取って出会ってきた。そろそろその原点に戻るべき時が来たのかも知れない。
カテゴリー: 総合
投稿者: SuperVisor
 木々の新緑が眼に映える5月。爽やかなうす緑色が太陽の光を受け、透けるように輝くさまに心躍る季節となりました。
 4月から新しい年度が始まり、新たな出会いに胸躍らす人も多いと思います。
 今日、二ヶ月ぶりに、東京LVSTに出かけました。職場では、新型インフルエンザによる待機もあり、遠出が出来ない事もありいい機会となりました。
 今回初めてお会いした女性の、自分自身の視野やその可能性に気づいていくさまを共有することになりましたが、改めて、「気づき」のすばらしさを実感しているところです。
 ごく当たり前の原理や原則について、心が落ち着かないとその「正体」を看破できないこと、如何に、普段から可能性について限定しているかを思うのです。
 一人一人は、「このままでは終わりたくない」と願っているのに、現実の生活の中で「出来ないこと」を嫌と言うほど味わっています。その中で、生理的な現象を、あるがままに見ることがなかなか難しいのが現実です。
 なぜ、ロービジョンの人たちが、そのことに気づきにくいのか?視野や視力の意味を「どれだけ」正確に把握しているのかに尽きるのかも知れません。案外、自分勝手な解釈や経験からイメージしていることが多いのかも知れません。
 つまり、最初の眼科での説明責任が果たされていないこと、日常生活での視野や視力の活用方法について我々は、知らされていないことが原因なのだと思うのです。このことは、実はとても大切なことですが、存外、無視されているような気がしてなりません。
 また、いつ、誰に、どのように、この現実について聴けばよいのかがわからないことも、なかなか真正面からとらえにくいのかも知れません。
 今日の出会いに思いをはせますと、適切なアドバイスを受ける機会がないことに気がつくのです。
 自分なりの工夫やこれが一番いい方法なのだろうと経験等に基づいて取り組んでいるとは思うのですが、
人間の生理的な現象や身体的能力についての正しい知見を基礎にした方法論が、正確に伝わっていないことによる混乱があると思います。
 まずはあるがままの身体的な機能や能力を実感していく取り組みが大切だと思います。
 一人一人のこころの中に、新緑の美しい生命力が溢れることを願ってやみません。