一昨日の雨の日。勤務の休憩時間に、いつもの場所で煙草を吸っていた。中庭にバラの花やこの季節の花が植えられている。赤や白、青や黄、オレンジと緑のバランスも良く、ボーッとするにはとてもいい空間だ。そこに、聴覚障害の訓練生が来た。
 彼女はスーッとこの空間に入ってきて、しばらく花壇の方を見つめているかのように思えた。そんな中でスーッと腕を伸ばしたかと雨粒を手のひらに受けはじめていた。雨音が喫煙スペースのルーフにあたって「ボトボトボト」とかなりの音を立てていた。
 ふと目をやると両耳に補聴器をつけているのが見て取れた。音としての感覚がどれほど正確に捉えられているのかはわからない。けれど、その音をも含めて手のひらで感じようとする姿勢に、ふと引き込まれていった。
 日常生活の中で、些細なことをどれだけ感覚を用いて実感しているだろう?音を聴いて何となくわかったつもりになっているし、触れて何となく感じているつもりになっている。けれども、一つ一つの出来事に対して、味わうように感じていることが少ないなと反省もしたりした。
 ぼくは、毎日、ラベンダーやブルーベリーの入った「コロボックル」という名の紅茶を飲んでいる。香りがとても気に入っているが、朝の出勤前の、その慌ただしさの中では、味わうと言うよりも単に習慣として飲み干している感が強いと思う。
 ゆったりとした時間の中では、口腔や鼻腔の感覚を、香りや味わいとして楽しんでいるにも関わらず・・・・・・。 
 音のしずくに囲まれているぼくにとって、雨を感じるために、手のひらにあたる雨粒の一つ一つの振動や刺激を味わう経験をしてこなかったんだと思った。確かに雨粒の身体にあたるその感覚は雨の強弱によって違っていたと思い出しながらも、もっと感じてみたい感覚の一つとしてこころの中に残った。と同時に「自分自身の感覚を味わうにしても、やはり意識的に感じるようにしないと、」改めて感じる瞬間だった。