カテゴリー: 総合
投稿者: SuperVisor
職場周辺の公孫樹がすっかり色づいている。青く澄んだ空にすっくと立つ公孫樹の、見事なほど黄へと変化した葉に、陽の光が斜めからあたるその光景に、思わず息を飲むような気分である。今年は寒暖の差がある上、温かな日と寒い日が緩慢なのか、紅葉が長持ちしているようだ。
落葉が風や車の過ぎ去る際にカサコソと音を立てるのも心地よいし、日中の温かな日には鳥の鳴き声もまた趣がある。足裏からのふんわりとした感触も心地よい。
先日、上野公園に出かけたが、目的は、東京国立博物館平成館の「皇室の美」と国立西洋美術館での「古代ローマ帝国の遺産・・・」とかを見るためだ。この日は、特に紅葉を期待していなかったが、平成館の裏庭が開放されており、その庭園の美しさに感動した。
そう言えば、上野の美術館巡りも大学時代が最後で、20数年ぶりとなる。国立西洋美術館の常設展では、おなじみの絵画に出会ったが、新たに収集されているものも沢山あり、またじっくりと見たいと感じた。スラーたちの点描画を見て、網膜上のドット対応なんかも思いめぐらすこととなった。落ち葉がこけの上に落ちた風景をデジタルカメラで撮影したものを後で見ながら、ドットになっていることや肌理の勾配なんかを感じられ面白い体験をすることができた。
近いうちに、冷泉家の古文書やチベットの展覧会も見に行こうと思っている。自分的には、少し遅い芸術の秋である。
落葉が風や車の過ぎ去る際にカサコソと音を立てるのも心地よいし、日中の温かな日には鳥の鳴き声もまた趣がある。足裏からのふんわりとした感触も心地よい。
先日、上野公園に出かけたが、目的は、東京国立博物館平成館の「皇室の美」と国立西洋美術館での「古代ローマ帝国の遺産・・・」とかを見るためだ。この日は、特に紅葉を期待していなかったが、平成館の裏庭が開放されており、その庭園の美しさに感動した。
そう言えば、上野の美術館巡りも大学時代が最後で、20数年ぶりとなる。国立西洋美術館の常設展では、おなじみの絵画に出会ったが、新たに収集されているものも沢山あり、またじっくりと見たいと感じた。スラーたちの点描画を見て、網膜上のドット対応なんかも思いめぐらすこととなった。落ち葉がこけの上に落ちた風景をデジタルカメラで撮影したものを後で見ながら、ドットになっていることや肌理の勾配なんかを感じられ面白い体験をすることができた。
近いうちに、冷泉家の古文書やチベットの展覧会も見に行こうと思っている。自分的には、少し遅い芸術の秋である。
職場のMさんと自主回収の器械の話になった。その器械が正常に動作している場合は、緑のランプが、使用不可の場合は赤のランプに切り替わるというものであったが、その話の中で、彼が、赤緑色盲ということであることを初めて知った。
そのMさんとの話の中で、最近のダイオードの交通信号機の赤と黄色の区別がつきにくくなったこと、とりわけ雨の日は全く駄目なことを教えてもらった。関東圏の鉄道の路線図はどうなのかと聴くと役に立たないことを彼自らが語ってくれた。
半ば自虐的な語り口調で、歩道と車道の縁石を無くしていくこと、ホーム上の線路側に転落しそうな誘導ブロックの敷設、あるいは、ホーム上に水たまりができないようにしている水勾配が車イスを転落させる原因になっていること、ハイブリッド車や電気自動車の車音のなさ等、ほんの3~4分の間に話してくれた。「誰かが犠牲にならないとわからないんでしょうね」と語る彼の口調の中に、どれだけ言ったってなかなか変わらないことへの怒りのようなものを感じた。
そんな話を聴きながら何か変なのだと感じる。少なくとも、快適な環境の中で生活したいと誰もが考えている。良かれと思って様々な工夫をしている。にもかかわらず、抜けていることが多い。ある部分に焦点することは比較的簡単だが、様々な違いを考慮してというのは難しい様に感ずる。まして全体を眺め見て判断することは、実際のところ一筋縄にはいかない。
自分に引き寄せてみる。毎日、判断を問われることが多いのだが、全体を捉えようと努力していても、思考停止することや思考の固執で部分しか見られていないなと感じている。それなら素直に様々な人の話を聴き、判断することだと思うのだが「自分の考えが一番。みんなは分かっていないのだ」と絶えずつぶやいている気さえする。
それぞれの違いをある程度意識することはあっても、その違いを違いとして受けとめ、なお、それを超えて理解していこうとするのが、少なくとも苦手だ。違うから気づくことが多く、だからこそ新たなものを創造していくことができるはずなのに、「こだわりやとらわれ」によって更なる限界を創っていることを思った。
Mさんとの話の中でも、自分とは違う色の見え方をしているわけだから、同じように体感するには、別の手だてや表現をする必要がある。しかし、その違いを違いとして受けとめつつ、そこで共有できる方法をきちんと模索しないとしたら、結局相手を黙らせてしまうだけになる。
わかってくれて当然というのも努力していないことなのだろう。わかってほしいから、相手の立場に立って語ることが必要なのだろう。そういった努力をしてこなかったことが悔やまれる一日となった。
そのMさんとの話の中で、最近のダイオードの交通信号機の赤と黄色の区別がつきにくくなったこと、とりわけ雨の日は全く駄目なことを教えてもらった。関東圏の鉄道の路線図はどうなのかと聴くと役に立たないことを彼自らが語ってくれた。
半ば自虐的な語り口調で、歩道と車道の縁石を無くしていくこと、ホーム上の線路側に転落しそうな誘導ブロックの敷設、あるいは、ホーム上に水たまりができないようにしている水勾配が車イスを転落させる原因になっていること、ハイブリッド車や電気自動車の車音のなさ等、ほんの3~4分の間に話してくれた。「誰かが犠牲にならないとわからないんでしょうね」と語る彼の口調の中に、どれだけ言ったってなかなか変わらないことへの怒りのようなものを感じた。
そんな話を聴きながら何か変なのだと感じる。少なくとも、快適な環境の中で生活したいと誰もが考えている。良かれと思って様々な工夫をしている。にもかかわらず、抜けていることが多い。ある部分に焦点することは比較的簡単だが、様々な違いを考慮してというのは難しい様に感ずる。まして全体を眺め見て判断することは、実際のところ一筋縄にはいかない。
自分に引き寄せてみる。毎日、判断を問われることが多いのだが、全体を捉えようと努力していても、思考停止することや思考の固執で部分しか見られていないなと感じている。それなら素直に様々な人の話を聴き、判断することだと思うのだが「自分の考えが一番。みんなは分かっていないのだ」と絶えずつぶやいている気さえする。
それぞれの違いをある程度意識することはあっても、その違いを違いとして受けとめ、なお、それを超えて理解していこうとするのが、少なくとも苦手だ。違うから気づくことが多く、だからこそ新たなものを創造していくことができるはずなのに、「こだわりやとらわれ」によって更なる限界を創っていることを思った。
Mさんとの話の中でも、自分とは違う色の見え方をしているわけだから、同じように体感するには、別の手だてや表現をする必要がある。しかし、その違いを違いとして受けとめつつ、そこで共有できる方法をきちんと模索しないとしたら、結局相手を黙らせてしまうだけになる。
わかってくれて当然というのも努力していないことなのだろう。わかってほしいから、相手の立場に立って語ることが必要なのだろう。そういった努力をしてこなかったことが悔やまれる一日となった。
ここ数日、澄み切った透明な空気、天が抜けるほどの青、イチョウの黄やハナミズキの赤が映えている。市街地、普段見慣れている風景の中での、紅葉のメリハリがはっきりしてきている。日本人の感性の底流には、「散りゆくものに美」を見いだしているのかも知れない。春は桜花、秋はもみじ。はかなく移ろいゆくものの中に、人生を重ね合わせているようにも思う。
今日、本の出版のことで人が訪ねてきた。かっては、拡大志向のもと色々とチャンスがあればそれをトコトン求め、手応え感に酔っていた自分があった。最近は、自分の夢を実現できればいいなぁといった具合に淡泊になってきた。むしろ、いまいる環境の中で、何を創造し続けたいのかを自らに問うことが多い。本自体を書くことよりも、本当に伝えなければならないことはなんだろうと考えてしまった。
ただ、経験知やテクニックを伝えたいわけではない。老若男女、様々に職業や受けてきた教育、経済環境、風土など異なる環境にあって、「時代の感覚」とも言うべき共通する問題と個別指向性の問題とを分けて、具体的に書き分けられるといいのではないかと話をする中で考えもした。
実際、様々な実験を通して工夫してきた臨床自体から創造していく一つ一つのささやかなものであっても、それが思いがけない「きっかけ」となり、好転する様を沢山見てきた。一度「あきらめ」てしまうとなかなか「こころが立つ」ことは大変なのだが、その人の中にある「あきらめきれない願い」のようなものに触れうると転換が起こる。そこには、ある意味での厳しさも伴う。言葉にすると「苦しいけれど楽しい」「つらいけど面白い」といった感じである。つまり、セルフトレーニングが大前提であるわけだ。
随分前にも書いた気がするが、「唯心所現」という言葉がある。その人が、思った通りの現実が現れ出でるというような意味だが、現実を転換する上で、どう腹をくくるかは重要に思う。個人的な体験では、腹をくくった時と腹をくくらないときでは全く現れてくる世界は違う。最近の動向を見ても手に取るように自ら感じている。いまはまだ、すっきりと腹がくくれていないのが現実である。
さて、くだんの本の企画についてである。自らの歩をもう一度総括する上で書くこととした。どういうものが現れ出でるかはわからない。けれども、沢山の人たちに同伴し、対話する機会を与え続けられたものとしての責任を果たしたいと思った。行間にその一人ひとりが現れてほしいと願っている。とは言え文章も下手、回りくどい言い方をする自分にできるのだろうかと頭を悩ましているところである。
今日、本の出版のことで人が訪ねてきた。かっては、拡大志向のもと色々とチャンスがあればそれをトコトン求め、手応え感に酔っていた自分があった。最近は、自分の夢を実現できればいいなぁといった具合に淡泊になってきた。むしろ、いまいる環境の中で、何を創造し続けたいのかを自らに問うことが多い。本自体を書くことよりも、本当に伝えなければならないことはなんだろうと考えてしまった。
ただ、経験知やテクニックを伝えたいわけではない。老若男女、様々に職業や受けてきた教育、経済環境、風土など異なる環境にあって、「時代の感覚」とも言うべき共通する問題と個別指向性の問題とを分けて、具体的に書き分けられるといいのではないかと話をする中で考えもした。
実際、様々な実験を通して工夫してきた臨床自体から創造していく一つ一つのささやかなものであっても、それが思いがけない「きっかけ」となり、好転する様を沢山見てきた。一度「あきらめ」てしまうとなかなか「こころが立つ」ことは大変なのだが、その人の中にある「あきらめきれない願い」のようなものに触れうると転換が起こる。そこには、ある意味での厳しさも伴う。言葉にすると「苦しいけれど楽しい」「つらいけど面白い」といった感じである。つまり、セルフトレーニングが大前提であるわけだ。
随分前にも書いた気がするが、「唯心所現」という言葉がある。その人が、思った通りの現実が現れ出でるというような意味だが、現実を転換する上で、どう腹をくくるかは重要に思う。個人的な体験では、腹をくくった時と腹をくくらないときでは全く現れてくる世界は違う。最近の動向を見ても手に取るように自ら感じている。いまはまだ、すっきりと腹がくくれていないのが現実である。
さて、くだんの本の企画についてである。自らの歩をもう一度総括する上で書くこととした。どういうものが現れ出でるかはわからない。けれども、沢山の人たちに同伴し、対話する機会を与え続けられたものとしての責任を果たしたいと思った。行間にその一人ひとりが現れてほしいと願っている。とは言え文章も下手、回りくどい言い方をする自分にできるのだろうかと頭を悩ましているところである。
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投稿者: SuperVisor
拡大読書器には、据え置きタイプと携帯タイプ、最近はパソコンに直接取り組むタイプのものがある。携帯タイプのものには、電子拡大鏡のタイプもある。実際のところ、これらを比較検討して自分にふさわしいものを見いだすことは難しい。手にとって納得いくような機会が少ないのである。もちろん、自分が何に使いたいかによって選定するものも違う。使う場所によってもだ。
一般的にこの読書器を様々な場面で使いたいならば据え置き型のものがよい。読むことはもちろん書くことにも、趣味や日常生活場面で活用できる。ただし、場所をとる。保有視野の位置によっては、机の高さとかイスの高さ、あるいは、画面が分離できるものなら本体と分離して置くといったような工夫がいる。画面の映り込みや、XYテーブルの操作速度によっては、ブラウン管タイプか液晶タイプかの選択も必要となる。しかも、何に使うかによってどういうものを選択するかが違ってくる。例えば、学習する場面では、黒板の文字を見るための機能と手元を切り替えられるものが良い。が、カメラを正確に固定することが難しいし、一度固定した場合は、見たいものの方を動かす方が使いやすい。XYテーブルがないものが多いが、もちろんXYテーブルがあるものが使い勝手は良い。読み書き以外どちらかというと不向きである。
同じ学習するといった場面でも読み書きに徹するのであれば、据え置きタイプのものが良いと思われる。カメラが固定された本体と画面が一体型か分離型ているものがある。操作ボタン類がXYテーブルにあるかそれとも本体側にあるかによっても使い勝手は違ってくるが、使い慣れればかなりの要求に応えることができ、しかもかなりの作業に利用することができる。ただし、場所をとるのだ。
一方、携帯タイプの拡大読書器は、持ち運びができることが身上で、簡単な読みや確認には威力を発揮するが、書くことやその他の作業をすることには不向きである。しかし、場所をとらないことからセカンド機としては有用と思われる。正確にラインを追うには、関節の可動域や持ち方の工夫が要る。また、上からのぞき込むタイプのものが多いし、傾斜をつけられるタイプのものでも長時間の読み書きをするには、操作になれるために十分習熟する必要がある。
電子拡大鏡タイプのものは、白黒反転が可能なこと、倍率を変えられることから、早く、簡単な確認には最適である。拡大鏡は白黒反転できないし、倍率も固定されている。もちろん、複数枚のレンズを用いて倍率を稼ぐタイプのものもあるが、視野にはめるレンズの面積が狭く、なかなか使い勝手が難しくなる。それに比べ電子拡大鏡はかなりの倍率を稼いでくれるので、そこそこ使い勝手は良い。また遠くの情報を画面に固定して、ボタンで確認できるものもあるが、長時間使用するには不向きである。読み以外の作業には不向きではある。
パソコンに取り込むタイプの拡大読書器は、場所を取らないことや、パソコンに集約して様々な作業を行う上では強力な武器になりうる。従って、オフィスで仕事をする上では有効ではあるが、様々な趣味的な作業用をする上では不向きだ。
とは言え、拡大読書器は、あきらめていたことをあきらめずにすむという効果はある。
もちろん、選択の上で一番大切なポイントは、保有視覚に対する自覚である。視野や視力のありようによって、使いやすいものが決まりやすい。
そう言ったことをトータルに考えた上で、自分にあったものを見つけ出す必要を感じる今日この頃である。
一般的にこの読書器を様々な場面で使いたいならば据え置き型のものがよい。読むことはもちろん書くことにも、趣味や日常生活場面で活用できる。ただし、場所をとる。保有視野の位置によっては、机の高さとかイスの高さ、あるいは、画面が分離できるものなら本体と分離して置くといったような工夫がいる。画面の映り込みや、XYテーブルの操作速度によっては、ブラウン管タイプか液晶タイプかの選択も必要となる。しかも、何に使うかによってどういうものを選択するかが違ってくる。例えば、学習する場面では、黒板の文字を見るための機能と手元を切り替えられるものが良い。が、カメラを正確に固定することが難しいし、一度固定した場合は、見たいものの方を動かす方が使いやすい。XYテーブルがないものが多いが、もちろんXYテーブルがあるものが使い勝手は良い。読み書き以外どちらかというと不向きである。
同じ学習するといった場面でも読み書きに徹するのであれば、据え置きタイプのものが良いと思われる。カメラが固定された本体と画面が一体型か分離型ているものがある。操作ボタン類がXYテーブルにあるかそれとも本体側にあるかによっても使い勝手は違ってくるが、使い慣れればかなりの要求に応えることができ、しかもかなりの作業に利用することができる。ただし、場所をとるのだ。
一方、携帯タイプの拡大読書器は、持ち運びができることが身上で、簡単な読みや確認には威力を発揮するが、書くことやその他の作業をすることには不向きである。しかし、場所をとらないことからセカンド機としては有用と思われる。正確にラインを追うには、関節の可動域や持ち方の工夫が要る。また、上からのぞき込むタイプのものが多いし、傾斜をつけられるタイプのものでも長時間の読み書きをするには、操作になれるために十分習熟する必要がある。
電子拡大鏡タイプのものは、白黒反転が可能なこと、倍率を変えられることから、早く、簡単な確認には最適である。拡大鏡は白黒反転できないし、倍率も固定されている。もちろん、複数枚のレンズを用いて倍率を稼ぐタイプのものもあるが、視野にはめるレンズの面積が狭く、なかなか使い勝手が難しくなる。それに比べ電子拡大鏡はかなりの倍率を稼いでくれるので、そこそこ使い勝手は良い。また遠くの情報を画面に固定して、ボタンで確認できるものもあるが、長時間使用するには不向きである。読み以外の作業には不向きではある。
パソコンに取り込むタイプの拡大読書器は、場所を取らないことや、パソコンに集約して様々な作業を行う上では強力な武器になりうる。従って、オフィスで仕事をする上では有効ではあるが、様々な趣味的な作業用をする上では不向きだ。
とは言え、拡大読書器は、あきらめていたことをあきらめずにすむという効果はある。
もちろん、選択の上で一番大切なポイントは、保有視覚に対する自覚である。視野や視力のありようによって、使いやすいものが決まりやすい。
そう言ったことをトータルに考えた上で、自分にあったものを見つけ出す必要を感じる今日この頃である。
カテゴリー: 総合
投稿者: SuperVisor
巡礼の旅に出た。11月の三連休をそれにあてた。今年は、祖母の死から初まって、随分とお世話になった方々との別離があった。とりわけ、気になる方がいた。MさんとSさんである。しかも、MさんがいたH市に行く機会に恵まれなかった。
連休の初めH市での用事が入ったお陰で行くことができた。また、連れとなる人もいて、その人とも久しぶりにお会いすることができた。
個人の自宅にお伺いし、いまだにその亡くなったMさんがふっと現れてくるような感もあったが、仏壇にお線香をあげ、家人の話を聴きながら、そのMさんの人生の道行きを心の中で追体験もした。普段生活の中では垣間見ることのできない様々なその個性を感じ、なお、親しみ深く思うと同時に出会えることがいかにありがたいものなのかを感じもした。
また、志半ばで亡くなったF市のSさん。バイクでツーリングするのが好きなおじさんだった。その在りし日には気がつけなかった故人の日常を感じ、いかに出会っていたとしても、その人の断面しか見ていないことを改めて知ることとなった。
去る者は日々に疎くなりゆくものとも言われるが、ふと、その人のことを心の中で思い浮かべると傍らに居るかのように感じられることがある。そんな不思議な旅だった。
連休の初めH市での用事が入ったお陰で行くことができた。また、連れとなる人もいて、その人とも久しぶりにお会いすることができた。
個人の自宅にお伺いし、いまだにその亡くなったMさんがふっと現れてくるような感もあったが、仏壇にお線香をあげ、家人の話を聴きながら、そのMさんの人生の道行きを心の中で追体験もした。普段生活の中では垣間見ることのできない様々なその個性を感じ、なお、親しみ深く思うと同時に出会えることがいかにありがたいものなのかを感じもした。
また、志半ばで亡くなったF市のSさん。バイクでツーリングするのが好きなおじさんだった。その在りし日には気がつけなかった故人の日常を感じ、いかに出会っていたとしても、その人の断面しか見ていないことを改めて知ることとなった。
去る者は日々に疎くなりゆくものとも言われるが、ふと、その人のことを心の中で思い浮かべると傍らに居るかのように感じられることがある。そんな不思議な旅だった。
カテゴリー: ロービジョン・セルフトレーニング
投稿者: SuperVisor
ロービジョンケアの勉強会をするのだけれど、勉強会にふさわしい本はないかとの問い合わせがあった。二三心当たりはあるが、果たしてそれでいいのかと問われると一長一短ありで勧めきれないでいる。折しも日が短くなり、読書の秋なんだが、ぼく自身は最近本を読まなくなってきている。「まずいなぁ」と思う。
何時の頃か、本の献呈が増えた。戴いたものだからきちんと読む。読んだ後、その著者に対して感想を言わなければならないのだが、さてさてどのように応えたらいいかと考え込んでしまう。率直に感じたままに言えばいいのだけれど、行間の余白に溢れるその人の世界も大切に感じ、結局ものを言わずに済ませている。
最近、あれこれ表現する以上に、人の話を聴くのが楽しくてたまらない。こころの中の思いを言葉に託していること、表現された言葉の背景を感じるからか、いままでボーッ聴いていたことに気づかされている。同時に、学ぶべきことが多く楽しめる。
ロービジョンケアについても然りで、遮二無二取り組んでいたときとは違った今だからこそ感じられる世界がある。本当に必要であれば、「きつかけ」づくりをするだけでいいのだと感じられる。何が何でもわかる必要もないし、まして、強引にわからせようとすることもない。力が入っていても結局は伝わらない。淡々と事実を積み重ねていくことが、大切なんだと感じる。
見えることの不思議さにこころ惹かれ、聞こえることの静謐さに感動し、触れることのぬくもりを愛おしく思い、馥郁とした香りにこころ躍らせる。当たり前のことだけれど、一人ひとりの違いが楽しいのだ。違うからこそ、それぞれの人との対しかたも違っていい。
同じことを表現する必要もない。そんなことをしっかりと考えるのだ。
「赴くべきところに赴く」そんな心境で取り組みたいな。
何時の頃か、本の献呈が増えた。戴いたものだからきちんと読む。読んだ後、その著者に対して感想を言わなければならないのだが、さてさてどのように応えたらいいかと考え込んでしまう。率直に感じたままに言えばいいのだけれど、行間の余白に溢れるその人の世界も大切に感じ、結局ものを言わずに済ませている。
最近、あれこれ表現する以上に、人の話を聴くのが楽しくてたまらない。こころの中の思いを言葉に託していること、表現された言葉の背景を感じるからか、いままでボーッ聴いていたことに気づかされている。同時に、学ぶべきことが多く楽しめる。
ロービジョンケアについても然りで、遮二無二取り組んでいたときとは違った今だからこそ感じられる世界がある。本当に必要であれば、「きつかけ」づくりをするだけでいいのだと感じられる。何が何でもわかる必要もないし、まして、強引にわからせようとすることもない。力が入っていても結局は伝わらない。淡々と事実を積み重ねていくことが、大切なんだと感じる。
見えることの不思議さにこころ惹かれ、聞こえることの静謐さに感動し、触れることのぬくもりを愛おしく思い、馥郁とした香りにこころ躍らせる。当たり前のことだけれど、一人ひとりの違いが楽しいのだ。違うからこそ、それぞれの人との対しかたも違っていい。
同じことを表現する必要もない。そんなことをしっかりと考えるのだ。
「赴くべきところに赴く」そんな心境で取り組みたいな。