毎年の約束事のように夏を盛り上げてくれる生き物に蝉がいる。子どもの頃、蝉の脱皮を見たことはなかったが、長じて実家の縁側のカーテンにつかまって脱皮して成虫になる場面に幾度か遭遇したことがある。背中側の殻の中心部分に亀裂が入り徐々に広がっていく。完全に殻を破って出てくるまでの間、乳白色をしている。その乳白色の蝉を見、やがて、羽が透き通っていく様に神秘的な美しさを感じたものだ。同時に殻を破ることの難しさや困難さとゆったりとした時間の中でとぎれることのない成虫への転換、諦めないことの素晴らしさを感じたものだ。かっては、日常生活の中で生き物たちの日常が身近にあった。
 関東に来て2年目の夏を迎える。ミンミンゼミが多い。「ミーンミンミーンミンミー」と鳴いている。日中大合唱ともなろなら、暑さを一段と感じるのは気のせいだろうか?後、アブラゼミは「ジィジィジィジー」、クマゼミは「シュジュクジュクジュク」と聴こえる。少し気温が下がってくるとツクツクボウシが鳴き始める。ツクツクボウシが出てくると晩夏を感じたりもする。「ツクツクボウシ」聴こえず「チュクチュクホーシ」と聞こえるのだが・・・。そして、ヒグラシ。「ヒューヒューキュルキュルキュル」と聴こえるのだが、さてさて、擬音化するのは難しい。ここ数日鳴き始めている。
 これらの蝉は、ぼくの生活環境の中に自然といる。そのこともまた不思議な気がする。
 で、ここでまた思うのだが、蝉の見ている世界はどんな世界だろう?それぞれの生物の進化の中で眼は進化してきているわけだが、色覚を有する動物は意外と少ないとされている。犬は白黒のモノトーンの世界で生きている。従って、盲導犬は信号機の認識は視覚ではできない。むしろ、交差点の縁を教えることでピタッと止まれるわけだ。
 また、鳥類の猛禽類は、中心窩が二つあり天空で獲物を探しているときと近くで獲物に襲いかかるときとで使い分けていると言う。
 ぼくたちは当たり前のように見るという行為を日々繰り返す。その当たり前だが見られることを十分に理解すると、何かの原因で「見えにくく」なったときに、それをカバーする方法を見いだせるのだと思う。つまり、機能的に弱くなったであろう視覚の、どの機能かを見いだしたときに傾向と対策が練られるのである。