お盆に入った13日に老健施設に勤務している人から久しぶりに電話があった。近況を話しながら、おもしろい話をしてくれた。毎年、盆になると、「お客様がきてるのでお茶を出してあげて」と利用者さんが言うそうだ。実際に人はいないのだが、利用者さんには見えているらしい。
 青年期まで京都で過ごしたぼくは、六波羅密寺の「地獄絵図」をこの時期になると思い出す。地獄絵図が幼い頃から脳裏から離れないのである。もともとお釈迦様のお弟子さんで目連という人がいた。目連にとっては、すばらしいお母さんであったには違いなく、母親が浄土に行っていると思っていた。その目連がお釈迦様に聴いたところ、あろうことにか餓鬼道に落ち苦しんでいる姿を見せられた。お釈迦様は、あなたにとって良いお母さんであったかも知れないが、他の人から見ればそうではなかったことを話され、供養する方法を教えられ救われたという物語からお盆が始まったとのこと。
 その老健施設の人の話を聴きながら、利用者さんには「見えている」世界があるのかな等と思った。
 五官の眼で見えないものを見るような場合の言葉として「心眼を開く」「千里眼」「透視」等という言葉がある。
 心眼とは、「ものごとの本質を見抜く眼」のことを指すのだが、落語の演目に「心眼」がある。直接今の話題とは関係ないけれど、こんな話だ。
 あん摩師が、女房の勧めで仏様に願掛けをして開眼した。茶屋で芸者と出会い夫婦約束をすると女房がやってきて胸を締め付けられる。「苦しい」といった途端目が覚める。女房から「怖い夢でも見たの?」と言われ「信心はやめた。盲人というものは妙なもんだ。眠っているうちだけよく見える」。話はもう少しだけそれるが、中途視覚障害者の夢を聴き取りしたことがあるが、このあん摩師さんと同じようなことを言う人が多かった。
 前にも少しだけ書いたが、視覚系には複数のルートがある。いま我々が視覚と言っているのは、眼から網膜を経、視神経を通り後頭葉まで至るルートであって、全てではない。
それゆえに、意識化されないけれど働いている系がある。高次脳機能障害で視覚的なダメージを受けた人たちの中で他の視覚系や認知系のルートがあるだろうことを示してくれる人たちが存在する。もちろん、普通なら意識化されていないから、本人自身も自覚がない。けれども、「見えない」けれど動いているものについて歩ける等という現象が起こる。こういう人は、歩行訓練なんていらないのである。
 また文字が全く読めなくなった人たちに、パソコン用のEye Movement訓練の課題に慣れてもらい、その後、筆順ソフトを用いて、眼で追視してもらう。場合によっては、動きにあわせて、なぞってもらうと読めるようになる。それを続けていく内に我々が視覚と呼んでいる系の若干の回復が起こる。見えないとは言わなくなるのだ。
 さてさて、老健施設の利用者さんは、どんな視覚系でものを見ているのかなどと週末は考えてみることにしよう。