アライグマについての新聞の囲み記事。関西のアライグマは「チキンラーメンが好き」で関東のアライグマは「キャラメルコーンが好き」らしい。その中で罠にしかける餌の傾向の違いを記事にしていた。人間もさることながら、動物の味覚もその生まれ育つ環境に左右されると改めて思った。
同じく最近の話題だが「味覚の一週間」と銘打った食育のイベントが小学生を対象に行われたそうだ。本物の味を知ってもらおうとの企画だが、毎日の一食一食が大切にされて初めて本物の良さが解るのではないかと思う。
感覚訓練で味覚訓練というのを考えて実施していたことがある。違いを感じられるようにと紅茶とかコーヒーを飲み比べてみたりした。これがなかなか難しい。コーヒーを例に取ってみる。抽出方法やコーヒー豆の煎り方、豆の挽き方、蒸らす時間、量、水の種類(軟水、硬水)等の条件を考え比べる必要がある。挽いた豆の中にくずまめが混ざっていると味が途端に変わってしまう。それぞれの豆の持つ酸味の強さ、苦みの強さ、コクの深み等を考えて提示し、銘柄を当ててもらうことなんかもした。
嗜好品としてのコーヒーを飲み慣れている人たちでも、存外微妙な差異は感じにくいことも解ったけれど、何よりもブラックで飲むのが苦手な人たち、つまり、ミルクや砂糖をたっぷり入れていた人たちだが、この人たちがちゃんと手間暇かけて抽出したコーヒーをブラックで飲むように変わっていく姿を見たときに、日常の一つ一つを、文字通り大切に「味わうこと」の意味を考えた。
今やわれわれを取りまく環境は、人工的なうま味成分に慣らされ、本物の持つ微妙な味わいをおいしいと感じることの方が難しい。本気で味覚を楽しみたくても、天然の素材が限られている。現状のファーストフードは濃い味を主流としている。これを一掃するぐらいの勢いがなければ、味覚を育てていくことが出来ないかもしれないのだ。
更に食の安全から言えば、雪印を発端とした企業の消費者を欺く各種の偽装問題がその後も続き信頼回復がなされないままであるし、食品添加物が身体に及ぼす影響について様々に議論されているにもかかわらず添加物が全く入っていない食材を探すこと自体困難極まりない。ある種矛盾しているのは、オーガニックを高いお金を払って買い安心したかのような風潮である。
人間が様々な姿形をしているように、野菜の姿形も様々であるべきで、色素を添加して美しく見せる必要もないし、虫食いがないよう農薬をたっぷり使う必要もない。
そう「味わう」ことの意味をもう一度考え直してみたい。あるがままの状態を感じてみる。外の世界に開かれている感覚器官を通して、その感覚器官の持っている力を十分に引き出しつつ味わってみる。日常のちょっとした風景の中でその感覚を使ってみる。
つまりは、「眼でものを味わう」「耳で音を味わう」「手で触れて味わう」「舌で、喉で味わう」「鼻や口で匂いを味わう」「身体全体で味わう」等々を具体的に取り組んでみること。人間の持っている身体の智慧は深いと信じている。