飛行機に搭乗する度に思い出す言葉がある。滑走路の誘導灯の青や緑の色光を「天使の涙」と表現した人がいる。離陸する、着陸する際に窓から眺めていると、光の流れが異なって見える。「天使の涙」という表現が正確なものかどうかはわからない。けれど、僕にはすっきりと受けとめられる表現だ。
 ある速さの中で視対象を見ると、その細部まで認識できない。認識できないと思っていても、潜在意識の中にくっきりと痕跡を残している場合がある。無意識のレベルなのだが、確かに感じているのだ。
 あるいは、スローモーションのように、一つ一つの動きが細部まで見えるような場合がある。例えばこんなことがあった。公道を自転車で走っていた。後ろからトラックがあおる。道路の駒止に自転車の車輪が斜めにあたる。自転車も身体も前のめりになり、身体が宙に投げ出される。ハンドルから手が離れ、上体から前に飛び、身体がのびる。そしてゆっくりと落ちていく。身体を護ろうとして、両肘をつく。アスファルトにがっんとあたり肘に痛みが走る。自転車が回転して少し横の方へ滑っていく。ほんの数十秒の出来事だが、コマ送りしているように感じた出来事。
 どちらの場合も、「時間」がある。しかし、時間軸が違っているように感じる。両者とも認識しているのは視知覚なのだろう。色々と思いめぐらすと、そのどちらも自分の感覚である。とすると、視覚が限定される状況の中でも、とらえられる何かがあるということだと・・・。