連携する。協働する。言葉としてはわかりやすい。直ぐにでもできそうな気がする。しかし思いの外難しい。違いが目につく。違いを違いとして受けとめられない。人は区分けすること、違いを違いとすることに長けている。同じ印を持つことも求める。だが、価値観の違いや思想の違いから対立することも多い。いま、COP15で、先進国と新興国、発展途上国との間で環境問題を巡る対立がある。社会構造の中に数え切れないほど対立構造が存在する。
対立構造をここであれこれ語るつもりはない。ただ、違いを自分の立ち位置から考えてみたい。
ロービジョンという枠組みで考えることとする。それぞれの見え方が違う。求心性視野狭窄と中心暗点。中間透光体の混濁の有無。屈折異常の程度によっても様々な違いがある。同じような見え方のタイプでも、視経験の有無等によっても違いが生じる。
当然、「見えにくさ」からくる様々な制約の共通する部分、可能性の共通する部分という点で重なり合うこともある。
では、日常生活でのそれぞれの困難さというものは、同じなのかと問われたとき、実際は違う。マスプロダクトでは解決できない、個々のオーダーメイドでしか解決できない問題が沢山ある。様々に違うからこそ、色々な解決の仕方が生まれ、その解決方法の経験という引き出しが多くあるほど、対応力が生まれる。「清濁あわせ飲む」ゆとりのようなものが畢竟生まれるのだ。
なぜ、こんなことを書き始めたか。それには理由がある。年末ともなると、一年の足跡を振り省り見る機会を誰もが持つ。私の場合、ロービジョンケアで出会った人たちを思い浮かべる。そしてそれぞれの可能性や制約なるものを考える。もちろん出会った人たちに共通する部分もあれば、それぞれ個性的な部分もある。けれど、私は一人ひとりの違いに着目し、その違いから生まれる様々な工夫や解決方法等を思いうかべる。
と同時に、ロービジョンケアの専門職間の連携や協働ができていたかを自らに問うてみるのだ。共通言語を持ってロービジョンケアについて語る努力はしている。が結構手前みそ的である。あるいは、こちらの側に引き込もうとする。違いを違いとして良しとも出来ず、まして楽しむ余裕などない。違うからこそ気づけることが山ほどあるのに、違いを排除しようとする狭量な心が動く。それで、連携が出来ていると言えるだろうか?
12日。今年、最後のロービジョンケアのセルフトレーニングの会。終わりよければすべて良しとなるように心がけたい。一人ひとりの違いに着目して、その人にとって一番を求められたらと思い、準備に勤しんでいる。