LVST-Tokyoトップへ
「冬来たりなば春遠からじ」
妻の乳癌の手術も無事に終わり、これから5年間の継続的治療方針を聴きつつ、健康であることの意味を考える毎日です。転移もなく、先週から25回の放射線療法や月一度の注射によるホルモン療法など、術後のケアも大変であるとの認識とともに、生きているから関われることの意味を考えさせられています。
父の角膜移植術も驚くほど順調です。今から50年前の近視矯正術の影響ですが、その手術を受けた多くの方は、10年前後で視力障害になったと聴き、また、術前の角膜の写真などを見ていると、確かに良く維持できたものだと驚きを持ちました。自らがロービジョンケアに取り組んでいることの因縁を感じています。
 更に、三男の大学受験も終わり、本人が希望していた公共政策学部福祉社会学科で父親と同じ分野の勉強をすることになりました。その三男との関わりの中で気づいたことです。最初、臨床心理士になりたいとの希望が出され、学ぶにふさわしい大学を聴かれ、幾つかの大学をあげました。てっきり、臨床心理士への道を進むのかと思いきや、前期日程の中で、公共政策学部を受けたいとの希望。よくよく聴いてみると、祖父である父から、「福祉の世界は厳しいのではないか。他に進路はないのか」と言われ、本人は言い出しにくかったようです。
普段、様々な人とその人の本心に肉薄したいと関わっているのですが、肝心の身内の思いをとらえきれていなかったこと、反省然りです。

さて、「視野の意識化」ということを、ことあるごとに話してきました。実際のところ、伝わるように話してきたのだろうか。日常生活では、視力以上に視野が重要であることを伝えられたか。距離との関係を一人ひとりにあった具体的で、わかりやすい言葉で、表現し得ただろうか。そんなことを考え始めています。
最近、出会う一人ひとりに対して、わかりやすさを心がけています。出会ったその時に、「ああ体験」、つまり、なるほどと感じられるように出会うのです。
まず、「視力と視野のどちらか一つを選ぶとしたらどちらを選びますか?」という問いかけをします。その問いかけに、「視野」を選びますという人は、僅かです。
そこで、「見え方をチェックしてみませんか」とお聞きします。A4のチェックシートを
用いて、自分の視野に気づくように取り組みます。30cm、60cm、1m20cm・・・。見え方を検証し、視野が距離に大きく依存することを感じてもらいます。まずは、一緒に「見え方」のチェックをします。次に、視野をうまく使えば見えるという体感を、日常の小物を用いて気づいていただきます。風景や写真と言ったものでは、視野の中のかけた部分に気づきにくいので、文字列などを選択します。
そのために最初に導入するのは、カレンダー法で、距離と見え方を理解し、視野のどの位置を用いて、世界を見ていくかを知ることに時間をかけ、視野のどの部分を用いることが見やすいかを納得した上で、牛乳パックを用いた眼球運動訓練をします。
すると、牛乳パックを最初に用いた訓練よりもずっと、視野を意識化して用いられ、日常生活の具体的な場面に反映されてきます。
実験 → 検証 → 仮説 → 実験 の流れの中で、「いつもと同じような場面で」、「いつもと同じように見える」、再現性が出てきます。そうすると、本当に眼を使ってみようということが始まります。いつもと同じようにすれば確実に見える。この当たり前で単純なことが大切です。そのための一人ひとりにあったわかりやすさを模索しています。

先日、ある人が、私たちの取り組んでいる眼球運動訓練に対して、侮蔑的に眼球運動訓練ではなく、眼球体操だろうと言ったということを聴きました。その言葉の意味を考えてみました。
先の妻の乳癌手術の現場では、術後すぐに「まんま体操」を指導されています。腕を十分に使うためにも、毎日し続ける。そのことで、機能を維持するわけです。考えてみれば、ラジオ体操もきちんとすれば、ストレッチ体操にも、有酸素運動にもなり、日々続けていけば、健康を維持することが出来ます。
取り組んでいただいている眼球運動訓練は、日々取り組むことで、様々な気づきを得ることができると同時に、眼の機能の維持にも十分効果があります。普遍化して行くには、眼球体操の方がいいのではないかと考えもしています。
最近の思いを書いて終わりたいと思います。
京都に、鳥獣戯画で有名な高山寺というお寺があり、鎌倉時代に明恵上人という方がいました。臨床心理の世界では有名な僧で、40年にわたる夢の記録をした方で、京大の故河合隼雄が研究した人です。明恵は、「人の持つべきものは、あるべきようはの7文字である」と言っています。 最近、その言葉が時折こころに浮かび上がります。「子として、父として、夫として、社会人として・・・の」あるべきようは、等と問いかけても見ます。つまり、関係性の中で果たすべき役割がある、それを見つめ直すことで、よりよい訓練体系を創造できはしないかということを思うのです。
ロービジョンケアの勉強会をするのだけれど、勉強会にふさわしい本はないかとの問い合わせがあった。二三心当たりはあるが、果たしてそれでいいのかと問われると一長一短ありで勧めきれないでいる。折しも日が短くなり、読書の秋なんだが、ぼく自身は最近本を読まなくなってきている。「まずいなぁ」と思う。
何時の頃か、本の献呈が増えた。戴いたものだからきちんと読む。読んだ後、その著者に対して感想を言わなければならないのだが、さてさてどのように応えたらいいかと考え込んでしまう。率直に感じたままに言えばいいのだけれど、行間の余白に溢れるその人の世界も大切に感じ、結局ものを言わずに済ませている。
最近、あれこれ表現する以上に、人の話を聴くのが楽しくてたまらない。こころの中の思いを言葉に託していること、表現された言葉の背景を感じるからか、いままでボーッ聴いていたことに気づかされている。同時に、学ぶべきことが多く楽しめる。
ロービジョンケアについても然りで、遮二無二取り組んでいたときとは違った今だからこそ感じられる世界がある。本当に必要であれば、「きつかけ」づくりをするだけでいいのだと感じられる。何が何でもわかる必要もないし、まして、強引にわからせようとすることもない。力が入っていても結局は伝わらない。淡々と事実を積み重ねていくことが、大切なんだと感じる。
見えることの不思議さにこころ惹かれ、聞こえることの静謐さに感動し、触れることのぬくもりを愛おしく思い、馥郁とした香りにこころ躍らせる。当たり前のことだけれど、一人ひとりの違いが楽しいのだ。違うからこそ、それぞれの人との対しかたも違っていい。
同じことを表現する必要もない。そんなことをしっかりと考えるのだ。
「赴くべきところに赴く」そんな心境で取り組みたいな。
 ある人から、書類の整理について質問があった。100円ショップのA4版のカラーボックスを3段重ねること、上段から重要度が高く迅速に処理するもの、中段は、数日間の余裕のあるもの、下段は2週間程度で処理するものと分けることをしてみようと提案させてもらった。同時に、やはり、100円ショップの色模造紙を用いてコントラストを補強すること、また、分類に当たってはある程度読み込む必要性を強調した。
 もちろん、整理に当たっては、書類回覧の際に他の人を捕まえて読んでもらえれば遥かに楽なのだけれど、そこはなかなか難しいかも知れないねとも付け加えた。
 電子カルテを見ようにも文字が小さかったり、その組織内でのお知らせ文が意外と読まれていなかったり、それぞれの属する組織によって悩みも多い。
 話を聞きながら、自分自身の立ち位置についてきちんと把握しつつも、他に依存するのではなく、どのようにしたら同伴者、協力者になってもらうかの工夫も必要だと感じた。バリアというよりも、「こだわり」が限界を創っているような気がした。
 学生だと定期テストなんかの処理に大いに戸惑うことがある。数学問題なんぞは、ルーペ(拡大鏡)で十分対応できる。が、国語の書き取りや長文読解は拡大読書器の扱い方一つでずいぶんと差が出てくる。同じ長文読解でも外国語はその点、シンプルな文字の組み合わせなので、拡大読書器を用いるにしても、より速読が可能である。 問題文の訂正がある場合には、単眼鏡が使いこなせることも条件だろう。
 つまり、考えておきたいことは、様々な道具があるのだけれど、その道具立てを決定していく上でどのように既製のものをうまく取り込めるかだと思う。
 Sさんの訃報を耳にした。Sさんには、直接お出会いしたことは一度もない。
知り合いのMさんを通じて間接的に、その人となりを知っているに過ぎない。けれども、僕自身は随分支えていただいた感がある。
 まだ、若かりし頃で、ロービジョンケアに対し駆け出しではあるが熱い情熱を抱いていた頃のことだ。全国各地の当事者のロービジョンケアの、あるいは、専門家の勉強会に要請があったら断らずに手弁当で歩き回っていた。先のMさんが見かねてくれたのだろう。Sさんから飛行機の優待券をもらってくれた。結構、Sさんは毒舌家だったと聞いているが、折に触れてSさんからその優待券を調達してくれた。
 思えば、有形無形の「心遣い」にどれほど支えられてきたのかを、その訃報を聴いたときに思った。その時々は、精一杯走っているので、気づけないことも多い。あらためて、立ち止まって考えたりするのは、悲しいけれどその人がいなくなってからだ。
 いま、専門家の一人として活動できる素地を確かに創っていただいたのだと感じ、心の底から感謝するとともに、故人の冥福を祈念したい。
 窓を開けると数日来の暑さが嘘のように涼しい。曇っているせいもあるが、風が欠航吹いているからか、肌寒い感がある。今日は、普段たまっている仕事を片付けにセンターに出勤した。
 机の整理や、たぶんもう二度と見ない書類をシュレッダーにかけていたら、「転勤するんですか?」と隣の課の職員が声をかけてきた。「そんな分けないだろう」と心の中でつぶやきつつ、「いつでも、直ぐに去っていけるだけきっちりとした仕事してるのかなぁ」と反省する羽目になった。僕自身の感覚で一番強いのは、「まあ、なんとかなる」「そのうち、片付ければいいよ」というものである。
 考えてみると、感覚というと、生理的な感覚もそう、心の傾向もそう。「まあ」という猶予感覚というのは、心の向きそのものである。つまり、こころの動きも感覚としてとらえるとしたら、案外おもしろい研究なんかもできると一人ごちなのだ。
 
 風が心地よく感じる季節になった。風の音を、風の息吹を感じることが好きだ。色々な生活環境の匂いも運んできてくれる。そう言えば、香りに惹かれていた時期があったことを思い出した。
 京都で生まれ、京都で育つ中で、お香の香りというのは、原初体験としていまも残っているのだろう。それが、匂いに関心を抱く原点だと考えもする。あるいは又、日常生活の中で、季節が移ろいゆく中で、香りに興味を持つことになったのかも知れない。
そう言えば、香道という日本的な粋な遊び?がある。たいていは、源氏物語の名前で表現するのだが、なかなか粋なものだ。匂いを当てることは結構簡単なようで難しい。
 ところで、いまの季節の匂いを象徴するものは何だろう?いま住んでいる土地の匂いは?自分自身の匂いはどんなものかな?ふと、そんなことを考えた。
 土地土地の匂いというのは確かにある。博多や函館の生活の中では、磯の香りやイチゴ畑、キャベツ畑の匂いや、ラベンダー、桜の匂い、雪の匂いが直ぐそばにあった。
 魚の匂いもそうかも知れない。いまの生活の中では、土の匂いや緑の香りがある。それと料理屋から流れ出てくる匂い。結構、スパイスのきいた匂い。ぼーっと町並みを歩いていても、いつもと同じ場所に来ると香ってくる。
 自分自身でゲーム感覚として楽しんでいる。匂いのオリエンテーリングも悪くはない。
 まだまだ身についてはいないけれど、意識化すると確かに感じるものである。明日、目覚めたときにどんな香りに満たされているかを実験してみよう。
 誰もいない職場。日常から非日常に変わる貴重な一瞬だ。人の容積もなく、ただがらんとした中で「シャカシャカ」とキーボードを叩く音やパソコンのビープ音、コピー機の「ウィーンッ」という待機音、「カチッカチッ」という時計の音など普段仕事中には気づかない音に包まれている。
 トイレにでも移動したのか、ゴミ箱を「コトン」と置くような音もかすかに聞こえる。事務所内は妙に明るいことに気づいた。節電、節電とつぶやきながら、蛍光管を次々に切って自分の周りだけを明るくした。
 目の前にあるディズニーのポスターがくすんで見える。青系が見づらい感じ。黄地に黒はかえって見にくく、寧ろ黒地に白は見やすいなあなんて、「フムフム」と確認してしまう。白地に黒は最悪かな。
 窓を開け放つと涼しい風が「そよそよ」と室内に入ってきます。日中の蒸せるような、汗がじんわりとにじみ出てくる不快感から解放される一瞬です。
 そんな中である種の音や人の声に耳が傾むくと、グンと意識の上に立ち上ってきます。心理学で言うカクテルパーティ効果というものです。意識が向くというのは、対象に対して焦点するということです。日常生活の中では、注意を集中し持続させることは、ことのほか難しいのが現状で、エントロピーの第二法則のごとく、注意が散漫化する方向にあるかと思います。
 生活行動の場面では、注意をどう分散するか、むしろ分配できるかがとても大切です。言葉を換えると、活用すべき感覚をどのように選択していくのかが問われています。最初は意識して注意を向けなければならない。そのうち、その場面場面での注意の向け方のコツがつかめてきます。実際の生活では、ずっと注意を維持することはできませんから、所作を滞らずに流れるようにするためにも、適切な注意の向け方、分配が重要になってきます。
 さて、歩行訓練の中に、SD訓練というのがあります。スタート地点から目的地までの地図を頭の中に描きルートを選択して歩くわけです。目標になるものを定位し、その手がかりから自身の位置を割り出し、次に立ち現れてくる次の目標に向かって移動し・・・と言うのを繰り返しながら最終的に目標地点に行くわけです。
 同時に往路と復路は逆になりますので、地図を回転させるなど行うのですが、ここで、大切になってくるのが、注意の集中と分散なのです。
 私たちの日常生活では、注意が不足していることで、失敗したりすることも多くあります。その原因をたどると、「注意」のありようが問われていると思えてなりません。