夜の帳が降りる。深い闇があたりを包む。そんな光景が無くなってしまった。妙に明るい。闇を追放することは一見良いように感じる。活動できる時間が増えたように感じるからだ。けれど、生活に余裕が無く、感性を楽しむ時間がないのだ。スローライフがもてはやされる所以ではないか?
 今日も意識的に見ようと眼を凝らしていた。網膜上には別の人やものとしてとらえていたはずなのだが、イメージが先行して違う人やものとして認識してしまった。先入観を排除しているのにだ。「如実知見」と言う言葉がある。あるがままに見るという意味だが、
実はとても難しい。これは、先入観を排除して事態を正確にとらえることを旨としての表現なのだ。しかし、曇った眼は、生理的な事実すら正確に捉えられないのだと感じた。
曇った眼というのもたとえなのだが・・・。
 例えば、普段身につけている財布を正確に思い出してとか、携帯電話を紙に正確に書くと言うことも意外と難しい。そのものを前にして書くのはそれなりに書ける。絵心を無視してもだ。しかし、イメージ化して書くとなると細部にわたって書くことが意外と難しい。見ているようで実は見ていないのだ。
 もちろん、特徴をそれなりにつかみ形態をイメージ出来れば、書き表すことは難しくはない。ただ、視覚的なイメージが創れる人の話だ。ぼくは、視覚化しにくいタイプである。人の顔を思い浮かべることも、感動するほど美しい風景を思い浮かべることも出来ない。なのに、視野の狭さだとか、机の上であるものがどのように見えるのかをイメージすることは容易に出来る。なんとも矛盾している。
 数字を見ると色が見えるという共感覚の持ち主がいる。感覚機能の未分化がそうさせると説明されているが、わからない。ただ、事象をイメージ化してとらえるには、事象の特徴を視覚的に捉えられるか否かだと感じている。すなわち、ある種のトレーニングが必要なのではないか?とは言えわからない。
 少しずつ、じっと人やものを観察しようと考えた一日である。