久しぶりの快晴。眩しい日射しに思わず眼を細める。なんと、近視がまた進んでしまったのか、細めた方が見え方がいい。眼をぱっちりあけて日陰から視対象物を見ても、細めた方がシャープでクリアな印象。ただでさえ、象の眼のようにつぶらな眼が一層細く小さくなる。この年で、近視が進んでいるというのも、妙な気分ではある。
 そう言えば、眩しさと明るさとの違いを考えた時期があった。遮光眼鏡という低波長をカットして、後は100%通す眼鏡がある。サングラスだと全体の波長を50%落として全体的に暗くなるのだけれど、遮光眼鏡の方は、明るくクリアだ。輪郭の縁が明確になる。しかし、長い期間サングラスをかけていて、遮光眼鏡をかけると明るくシャープに見えることが、眩しいと感じることがある。
 光に対する感受性(比視感度)に関わる問題ではあるが、眼そのものが様々な状況に順応することを考えると、ある種の慣れについて十分に配慮する必要性があると思われる。ポジティブな側面とネガティブな側面とを明確にすることも必要。
 見えることを、そう感じていることを当たり前のように感じることは致し方ないが、実際に試してみると違うことが多い。慣れた条件だと、慣れたものが一番いいように感じてしまう。しかし、本当だろうか?
 「眩しい」と表現したとき、「明るい」と表現したときの違いについて、明確にする必要を感じる所以である。「明るい」というのは、眼的な意味から考えると、不快感はなく、普段見ているよりも、細かい点まで見える状態を指すように思われる。輪郭の縁や、そのもの自体が違和感なくはっきりととらえられる状態を指すと考えている。
 一方、「眩しい」というのは、不快感や違和感があって、輪郭の縁やそのもの自体が、白けたり、見えにくい状態を指していると思われる。更に、個体差による感覚的な要素が
加わることで、眩しさそのものがわかりづらくなっているのではないか。そんなことを思うのだ。
 偏光眼鏡をかけると、水面の反射光の「ギラッ」とした光のダマを無くしてくれる。遮光眼鏡だと、「ギラッ」とした感じは和らげられるものの、星雲図の中の星団の玉のような「チカッ」とした感覚が残るのである。
 肉体の維持という点から考えると、快的なものを取り込み、不快的なものは排除するのが生理的な現象であるわけだから、「眩しさ」については、排除する側の極に位置すると考えていいのかも知れない。
 しかしながら、一方で、肉体的な慣れというものも存在している。どんな悪条件の中でも適応しようとする身体の智慧がある。
 更に気象という面で考えると、夏から秋にかけての「眩しさ」と冬から春、そして夏に
かけての「眩しさ」の本質は違う。地球と太陽との位置関係から来る光量の差によるものだが、一般的に夏から秋に向けては「眩しさ」は減じていく。
 地球環境と言うことから考えると、緯度の高い方が「眩しさ」を感じることが多い。
 従って、「眩しさ」や「明るさ」を考えるときには、複数の側面から考えなければならないし、簡単に結論づけをすることは戒めなければならないと思うのである。