ゆらゆらと揺れている。横に、横に、左右にリズム良く、アンダンテ?のように。地震の揺れのほんの数分前に、布団の中でまどろんでいた状態から覚醒する状態へと移行する過程の中での出来事だった。2日前の夜8時前後の揺れはわからなかった。大分行きのチケット購入のためにコンビニに振込みに行った後、出していたクリーニングを取りに、店の近くを自転車で走っていた。木の葉が揺れ、赤提灯が揺れているなぁと思いつつも、350mlのビール缶を飲んでいたこともあり単に酔っているからかなぁと感じていた。クリーニング屋に入った途端、「地震がありましたね」と言われ、「自分が揺れていたんだと思っていました。」等と話した。
 静止した状態で静止しているものを見たり、静止した状態で動いているものを見たりするのと、動いている状態で静止しているものを見たり、動いている状態で動いているものを見たりするのとは、明らかに感覚が違うことに改めて気が付いた。こちら側が動きを伴っているときには、相当なエネルギーの負荷がかけられないと気が付きにくい。一方、今朝の静止した状態では、わずかな刺激で感じとるのである。
 求心性視野狭窄の場合、静止した状態で静止物をみたり、動きのあるものを見る場合は、比較的落ち着いた状態の中で視対象物をとらえることが出来る。その際には、手元よりも距離が離れれば離れるほどとらえやすい。動いているもの、例えば球技のようなスポーツでは、自分から離れていくボールの位置や相手から繰り出されるボールの位置がとらえられると推測から動くことも可能となる。視野の意識化が進んでいると、ボールが遠く
にから手元に来る見え方の違い、ボールの早さを勘案することで自分自身の動きをある程度調御することが出来る。ボールがふっと消える位置がわかれば、後は眼球運動をして、対象となるボールを逃がさないことである。
 一方、自分から離れていくボールについては、どういう軌跡を描くかがわかりにくいが、眼球運動で最初は大きく動かして見、かなり離れただろう位置に行ったと感じたときには、小さく動かすことで発見することが出来る。
 言葉にすると、ざっとこんなものなのだが、速いボールを追視することはなかなか難しい。では、どうするのか?幼稚園児や小学校低学年のサッカーを見たことのある経験はあるだろうか?子どもたちの動きが割合緩やかで練習に適している。子どもたちが機敏ではないことで追視しやすい。
 中心暗点の場合は、遠くにボールがあれば、暗点が大きくなるのでどこにあるのか、よりわかりづらい。近づいてくると「ふっと」突然現れてくる。現れたときにはすでに身体が反応するには時既に遅く、悔しい思いをしてしまう。では、球技は出来ないのだろうか?否である。暗点は大きくなっても、「大きな物体があるなぁ」と感じることは出来る。人は存外発見しやすい。ボールの動きが、つまり、手元からどの方向へと向かっていくのかがわかれば、大体押さえておくべき位置がわかる。例えば、テニスの壁打ちのような課題を繰り返す中で、その感覚をつかむことも可能である。
 あきらめることは簡単ではあるが、自分の見え方と相談しつつ、工夫をすることは十分に可能であると言いたい。
 それこそ、多くのロービジョンの方とスポーツについて議論してきた。子どもたちの場合、実際に色々と実験してくれて報告してくれる。野球やソフトボールの場合、「ボールが空と一体となってわからない」テニスのような場合、「ふっとボールが消えるんですよ。」とか「ふっと現れるんですよ」等と語ってくれた。
 全てを完璧に出来なくても、一緒に楽しむことができることもまた、大切なことであるし、例えば、ボーリングのように方向性が決まっていて、自分の眼で正面がこの位置というのがわかれば、練習しさえすればそれなりのスコアも取れる。
 つまり、視野を意識化することは、生活全体にその影響を及ぼすと考えてもらえたらと思うのである。