雨音で目が覚めた。静かに降る雨も、激しく降る雨も音の変化が楽しめる。朝、窓から差し込む陽があると、部屋中に光が溢れて、家具や天井等の一つ一つが鮮明に見える。これが薄曇りだと、どちらかというと、自然な感じで、しかし夜の蛍光灯を消した後のような輪郭が不鮮明なものとはならないのがいい。至ってシャープな感じで、陰影も適度で心地よい。間接照明を上手に用いると、このシャープでありながら自然な彩りにこころが落ち着くのと似ているかも知れない。
 朝、鳥の鳴き声や風音なんかで目覚めるのも、雨音で目覚めるのも自然なリズムに違いなく、その響きを伴って、ぼんやりとした意識から徐々にはっきりとした意識へと転換していくほんの1分ほどの時間がとても楽しい時間でもある。
 目を覚ましたときに、強い光が部屋中に溢れているのも気持ち的には悪くはない。悪くないというのは、積極的にいい分けでもないからだ。ものの形を形として見るためには、輪郭や「肌理」がはっきりとしていることが重要である。難しく言うと「肌理の勾配」とか「アフォーダンス」などと表現するのだが、要はメリハリがついていることが大切なのである。J.Jギブソンという認知心理学者がいる。日本人では、佐々木正人という学者が、「アフォーダンス」の第一人者かなぁ。
 さて、ものの気配というのも聴覚的な情報や視覚的な、それもどちらかというと周辺視野からもたらされる情報というのがとても大切であると考えている。ものを細かく分析できる力を視力と呼び慣わしているが、これだけが重要な訳ではない。視野の、周辺からもたらされる情報は、ざっくりと大まかな、しかし、ある程度の形態を理解する上でなくてはならないものである。その上で、知覚するという別の要素、脳の認知機能が明確な形を見せる訳である。
 ぼんやりとした目覚めからほんの数分で意識が覚醒し忙しく分析が始まることのシステムに感動するとともに、逆に余韻を楽しむことはそれ以上に重要なことだとも思うのである。