先日、新聞で取り上げられていた記事の中に、ラブラドルレトリバーが浦臼町の河川敷に横転していた自家用車の中で祖父と孫の生命を守った犬として取り上げられていた。よく、盲導犬協会などでこの犬はもともと泳ぎの得意な狩猟犬であるが、温厚な性格、忍耐強く知能も高いため、介助犬としての資質が高く、介助犬として相応しい犬種であるとの紹介を受けることがある。
人類と犬との関わりの歴史は随分古いらしい。盲導犬らしきものとして記録に残っているのは中世ヨーロッパの絵画の中に、橋から転落した飼主をのぞき込んでいるものが一番古いとされている。実際、科学的で計画的に盲導犬を養成し始めたのは20世紀初頭のドイツで、日本最初の盲導犬は失明した傷痍軍人のためにこの犬をドイツから輸入したものである。その一人に、日本盲人職能開発センターを創設し、視覚障害者の職域開拓と職業的自立をめざした故松井新二郎氏であったことは存外知られていない。
その松井氏の後半生の人生に関わる中で、一度も盲導犬と歩いておられず、いつも側にはガイドする人たちがいたのが印象に残っている。
盲導犬のことを考えると、双方向でのコミュニケーションにおいて会話が出来ることは重要だろう。少なくとも人と人の関係性ではきちんと話さえすればやりとりが成立する。一方、犬とのコミュニケーションはなかなか取りにくい。こちらの意図が伝わりにくいし、相手の意図もくみ取りにくい。しかも、メリハリを十分につけないといけないし、何よりも序列の世界でもある。つまり、犬に命令するしかない。けっして対等の関係性になれないような気がする。
視覚障害児・者の移動の上で、実のところ盲導犬の需要はどこまであるのだろうか。同行援護が進んでいき、その利用が適切になされるように変化していった時、盲導犬や介助犬を否定しているわけではないが、その役割はどうなるのだろうか。今と同じような気もしている。
今、松井氏に「なぜ盲導犬と歩かなくなったのですか?」と聞いておけば良かったと思うのである。