理療教育課程の利用者さんにEye Movement 訓練を2年半ぶりに再開した。二人とも網膜色素変性症で、中心から少し下の方に視野が残っている。また、左右差があって、上下に少しズレている。そのため、優位な眼で固視していて疲れてくるとスイッチが変わり、悪い方の眼が優位になる。その時に、ズレがあること、視力の差があることで、一瞬見ているものを見落としてしまう。眼が視対象を探索するため、ウロウロしてしまう。結果、眼が悪くなってしまったと思い、気持ちが落ち込むのだ。
誰もが、そういった現象をなかなか受け止めることができない。精神的に落ち込むのである。鬱的症状が出る。必要以上にもがき苦しむのだ。自分自身が、困ってはいるもののなんとかやり過ごすことができるときや、視野や視力がある程度あるときには、余裕があってEye Movementの必要性を感じない。そのこと自体致し方ない。
しかしである。ある程度余裕のある時にこそ、真摯に自分自身の眼を用いて、体感的に理解することがいかんともしがたい状況に陥った際に、自らを引き上げてくれる。その事実をどのように伝えればいいのか、平成元年からずっと模索している。
準備することは、難しい。まだ、大変さが現実化しないときに、将来のことを見据えて取り組むことは、将来が不安に彩られていたとしても、すっと受け止めることはできず、とりあえず、経験しておけばいいのだと思うのである。
くだんの二人も同じ。いよいよ、現実として困った。だから解決したいと思った。その間、見えにくさに飲み込まれ、心は千々に乱れた。いま、Eye Movementを始めて、もう少し前に取り組んでいたら、随分楽だと思いもしている。そう後悔することも必要なのではないだろうか。順風万般のときには、体感できにくい現実がここにもあるように感じた。この二人に対して、背水の陣で、向き会えるよう取り組むことが、その未来を切り開くことになるのではと、いま、思っている。