毎日、まどろみの中でいつもと同じ音を聴いて起きていると思い込んでいた。実は同じ朝はない。同じようにいつもと同じだと解釈しているに過ぎない。新聞配達のバイクの音も、鳥の鳴き声も、同じような気配の中で感じているから、そう思っているのだ。
風景にしても、微妙に変わっている。木立の緑が、葉の輝きが太陽の光の中できらめいているのも同じように感じてしまう。雨上がりの葉の色と、朝の早いうちの葉の色と、いや午後の陽射しの中の葉の色とは、みんな違う。いや、曇った日や雨降りの日も葉の色は輝いている。その時、その場の色がそこにある。若かったころの青さと今の年齢の青は違っているように感じる。何よりもまぶしく感じるようになってきている。加齢現象の一つなのだが、みんなと同じ色を見ていると思っている。
音にしても、音に興味を持ち始めてから、随分、音から季節感や天気の移り変わりを感じるようになった。たとえば、雨が降っている。傘にあたる雨音は、雨粒や勢いで随分違っているのに、同じように感じている。いや、ただ雨音のイメージで聞いているかもしれない。
近頃の楽しみの一つに、同じ現象の中にも日々の新しさを感じ取りたい気分があって、鳥の鳴き声がどんなふうに聞こえているのかを意識して聞くようにしている。方向性や距離、どんなふうに飛んで行ったかの軌跡など、毎日同じではない。
いつもと同じような音であっても、いつもと同じ風景であっても違っている。ただ、ランドマークのように普段から同じように立っている看板や標識などは、そのもの自体が大きく変わるわけではない。とは言え、永久にそこに存在し続けるかと言うと変化することもある。
特に、経済的活動が著しい現代社会ではなおさら、数年のうちに店舗が変わっていたり、空き家になっていたり、そこにビルがたっていたりする。
道路自体は変わりがなくても、そこに存在している建物や景色が一変していることも多い。まして、日常生活の中で見慣れた風景だと、変化していくものやことに対して修正が加えられやすく違和感ない。しかし、たまに見る風景だと違和感を感じるとともに、変化に対して気づくことが多い。同じ風景を見るにしても、より普遍的なものを基準点にしておくことも必要だと感じた一日だった。