バリア (2009/11/27)
カテゴリー: 総合
投稿者: SuperVisor
職場のMさんと自主回収の器械の話になった。その器械が正常に動作している場合は、緑のランプが、使用不可の場合は赤のランプに切り替わるというものであったが、その話の中で、彼が、赤緑色盲ということであることを初めて知った。
そのMさんとの話の中で、最近のダイオードの交通信号機の赤と黄色の区別がつきにくくなったこと、とりわけ雨の日は全く駄目なことを教えてもらった。関東圏の鉄道の路線図はどうなのかと聴くと役に立たないことを彼自らが語ってくれた。
半ば自虐的な語り口調で、歩道と車道の縁石を無くしていくこと、ホーム上の線路側に転落しそうな誘導ブロックの敷設、あるいは、ホーム上に水たまりができないようにしている水勾配が車イスを転落させる原因になっていること、ハイブリッド車や電気自動車の車音のなさ等、ほんの3~4分の間に話してくれた。「誰かが犠牲にならないとわからないんでしょうね」と語る彼の口調の中に、どれだけ言ったってなかなか変わらないことへの怒りのようなものを感じた。
そんな話を聴きながら何か変なのだと感じる。少なくとも、快適な環境の中で生活したいと誰もが考えている。良かれと思って様々な工夫をしている。にもかかわらず、抜けていることが多い。ある部分に焦点することは比較的簡単だが、様々な違いを考慮してというのは難しい様に感ずる。まして全体を眺め見て判断することは、実際のところ一筋縄にはいかない。
自分に引き寄せてみる。毎日、判断を問われることが多いのだが、全体を捉えようと努力していても、思考停止することや思考の固執で部分しか見られていないなと感じている。それなら素直に様々な人の話を聴き、判断することだと思うのだが「自分の考えが一番。みんなは分かっていないのだ」と絶えずつぶやいている気さえする。
それぞれの違いをある程度意識することはあっても、その違いを違いとして受けとめ、なお、それを超えて理解していこうとするのが、少なくとも苦手だ。違うから気づくことが多く、だからこそ新たなものを創造していくことができるはずなのに、「こだわりやとらわれ」によって更なる限界を創っていることを思った。
Mさんとの話の中でも、自分とは違う色の見え方をしているわけだから、同じように体感するには、別の手だてや表現をする必要がある。しかし、その違いを違いとして受けとめつつ、そこで共有できる方法をきちんと模索しないとしたら、結局相手を黙らせてしまうだけになる。
わかってくれて当然というのも努力していないことなのだろう。わかってほしいから、相手の立場に立って語ることが必要なのだろう。そういった努力をしてこなかったことが悔やまれる一日となった。
そのMさんとの話の中で、最近のダイオードの交通信号機の赤と黄色の区別がつきにくくなったこと、とりわけ雨の日は全く駄目なことを教えてもらった。関東圏の鉄道の路線図はどうなのかと聴くと役に立たないことを彼自らが語ってくれた。
半ば自虐的な語り口調で、歩道と車道の縁石を無くしていくこと、ホーム上の線路側に転落しそうな誘導ブロックの敷設、あるいは、ホーム上に水たまりができないようにしている水勾配が車イスを転落させる原因になっていること、ハイブリッド車や電気自動車の車音のなさ等、ほんの3~4分の間に話してくれた。「誰かが犠牲にならないとわからないんでしょうね」と語る彼の口調の中に、どれだけ言ったってなかなか変わらないことへの怒りのようなものを感じた。
そんな話を聴きながら何か変なのだと感じる。少なくとも、快適な環境の中で生活したいと誰もが考えている。良かれと思って様々な工夫をしている。にもかかわらず、抜けていることが多い。ある部分に焦点することは比較的簡単だが、様々な違いを考慮してというのは難しい様に感ずる。まして全体を眺め見て判断することは、実際のところ一筋縄にはいかない。
自分に引き寄せてみる。毎日、判断を問われることが多いのだが、全体を捉えようと努力していても、思考停止することや思考の固執で部分しか見られていないなと感じている。それなら素直に様々な人の話を聴き、判断することだと思うのだが「自分の考えが一番。みんなは分かっていないのだ」と絶えずつぶやいている気さえする。
それぞれの違いをある程度意識することはあっても、その違いを違いとして受けとめ、なお、それを超えて理解していこうとするのが、少なくとも苦手だ。違うから気づくことが多く、だからこそ新たなものを創造していくことができるはずなのに、「こだわりやとらわれ」によって更なる限界を創っていることを思った。
Mさんとの話の中でも、自分とは違う色の見え方をしているわけだから、同じように体感するには、別の手だてや表現をする必要がある。しかし、その違いを違いとして受けとめつつ、そこで共有できる方法をきちんと模索しないとしたら、結局相手を黙らせてしまうだけになる。
わかってくれて当然というのも努力していないことなのだろう。わかってほしいから、相手の立場に立って語ることが必要なのだろう。そういった努力をしてこなかったことが悔やまれる一日となった。