夏の陽射しを感じる日となった。萌葱色の葉がすっくと天に向かって輝いている。
眩いばかりの光。室内から屋外を眺めても、「白けた」感じが強い。視覚障害の一人一人の感じ方も様々で、「眩しい」と感じる人もいれば、「ちょうどいい」という人もいる。
一般的に視野が狭くなると「暗い」という人がいるけれど、「周辺視野がある程度残っていると「まぶしさ」を感じたりする。
本当に一人一人の見え方が違うのを感じる季節でもある。
 5月になり、利用者の一人一人の個性が徐々に現れてきているようだ。自然の中の一木一草に個性があるように、それぞれの歩んできた人生の、その風景の違いも含めて、個性に溢れている姿を感じるのはとても楽しい。
 違いと言うことから考えてみると、音や触れることも実に個性的だと思う。
 例えば音を聴いて、そこから連想されるイメージは一人一人異なっている。感覚訓練という名の訓練を最初手がけたときにも、そんな印象を抱いたものだ。「あなたが、慣れ親しんでいる波の音を擬音であらわすとどんな音ですか?」そう問いかけると、それぞれの人が体験してきた音がまず表出してくる。日本海側の荒波がイメージとしてある人は「ドドーン」という音であったり、穏やかな瀬戸内地方で育った人は「ザーザーン」とか「チャプチャプ」であったりする。あるいは、教科書でならった「ザブンザブン」。その人が体験してきた「音風景」がそこはかとなく現れてくるのを感じさせられた。
 実際に波の音を聴くと、様々な音風景があるのだけれど、一度イメージしたり、擬音化するとなかなか音を正確にとらえることも難しくなる。イメージが創りあげられていくからだ。それゆえ、感性を豊かにしていくには、とらわれないことが大切に感じるのは僕だけだろうか?
 翻って、実はわれわれの日常生活を工夫していくには、汎化されることも大切である。パターン化することも、習慣化することも、智慧が隠されている。知識というのは、努力することで身についていくものだが、無駄のない「流れるような」自然さの中に智慧の奥義があるように感じている。
 無駄がないというのは、余分なことをせず、ただ淡々と行うことなのだと思うが、簡単なことほど難しい。