一人ひとりのロービジョンの人たちの見え方について、あれこれイメージしつつ工夫を重ねてきてはいるが、いまだ不十分な気持ちがある。できるだけ、相手の本心を訊くように努めてはいるものの、どちらかというと推測や思惑が入っているような気がしてならない。「傾聴する」姿勢が大切だと言われる。「きく」というのを辞書で引くと「聞く」、「聴く」、「訊く」がある。どのような「きく」をしているかによって、相手の見え方の状態把握の深さが異なってくるように感じている。
 ロービジョンの人たちに「どんな風に見えていますか?」「日常的な見え方について説明してください」と問いかけたとき、自分の見え方を伝えようと色々に表現してくれる。きく側が、視覚機能の特性を識り、かつ、日常生活場面を様々に想起しつつその話に耳を傾けていると、霧が晴れるような感じて「ああ、こう言いたいのだな」というのがわかるときがある。実際の見え方は、個々人によって違うわけだから、一般論として語ることができたとしても、さじ加減のような微妙な感覚が残る。
 日常生活の生活の仕方も様々である。無くて七癖という表現があるが、同じような行動をしているように見えても使われる筋肉なんかも微妙に違う。歩き方一つもそうだし、書く動作にしてもそうだ。当然のことながら、視覚情報に対する注意の勾配の仕方も違う。
ある人にとっては、関心を引き細部にわたって把握することであっても、別のある人にとっては、意味のない、いや意識にすらのぼらない情報であったりする。
 もちろん、日常生活において注意を分配したり集中したりして、自分にとって必要な情報を切り出している。しかし、文化とか興味とか、関心とかの向きによって注意される勾配の程度はかなり違うのではないだろうか?
 テーブル上の何気ない毎日の繰り返しやそこに置かれているものも、個々人の日常生活では同じものであるはずはないのだけれど、ある程度人の話をききつつ、自分勝手なイメージをつくりあげて、「たぶんこうしたら生活が楽になりますよ」と一般論で語っているような気がするのである。
 最近、人と語り合うとき、その人の生活の「注意される勾配」がどのようなものか、ふと考えている自分に気づくのである。