カテゴリー: 総合
投稿者: SuperVisor
4月はセンターの周囲は、染井吉野が咲き誇り、見ごろだった。中旬には、京都の平野神社の桜、染井吉野ではなく様々なヤマザクラが満開だった。5月中旬のいま、センターの周辺は、やや濃いめの緑の葉の中からサツキやツツジのピンクや白が咲いている。順送りに、花々が咲いている。今日は、午後から雨が降り続いている。時折、バシャバシャと強く降る。大粒の雨が地面にたたきつけられる音も、風がヒューヒューとうなる音、地面から跳ね返る雨もまたおつなものである。静かな住宅街のせいか、風音とともに、室内の時計、安物のクオーツのカッカッという音が耳に心地よい。
今日の出来事ふたつ。一つは、10年前に出会った人が訓練に来ている。もう一つは、土曜日に会った人が、8月の訓練に来たいとのこと。
時の流れに浸るひと時である。
今日の出来事ふたつ。一つは、10年前に出会った人が訓練に来ている。もう一つは、土曜日に会った人が、8月の訓練に来たいとのこと。
時の流れに浸るひと時である。
カテゴリー: 総合
投稿者: SuperVisor
職場で議論することになった。利用者が思いのほか少ない。あれこれ利用を増やすアイデアは出てくるのだが、既成の考えに基づいたもの。訓練をどうするかという訓練に偏重したものである。
実際のところ、利用者が増えない現状を、謙虚に受け止めるなら、魅力がないか、若しくは手前味噌的な要因が大きいからであろう。だとすると、ここは、誠実にまずは、利用者が求めている効果、効用に対してズレているととらえることが賢明である。
では、利用者が何を求めているのだろうか。ずっと考えているのだが「感動」ではないか。当たり前のようにできていたことが出来なくなったとしても、ちょっとした工夫や手順の改変で、「おっできる」という感動。あきらめなくてもよいのだという気づきに感動することも大切だと。
さて、訓練の中に感動はあるのだろうか。答えは「ある」訓練と言うと、何かできないことをできるために努力するイメージがあるが、そんなものではない。訓練は、手順の確立にその本質があるのだと思う。つまり、より自然に、無意識的に反復できるようになる、ごく自然な営みである。そのためのコツをつかむのが訓練である。
そんなことを考えつつ、ごく自然にという、ある意味では、難しい内容であったとしても簡単に思え、気づきとともに楽しくなるようなやり方を模索していくことを真摯に考えること、そのための日々の研鑽が必要ではないかと思っている。
実際のところ、利用者が増えない現状を、謙虚に受け止めるなら、魅力がないか、若しくは手前味噌的な要因が大きいからであろう。だとすると、ここは、誠実にまずは、利用者が求めている効果、効用に対してズレているととらえることが賢明である。
では、利用者が何を求めているのだろうか。ずっと考えているのだが「感動」ではないか。当たり前のようにできていたことが出来なくなったとしても、ちょっとした工夫や手順の改変で、「おっできる」という感動。あきらめなくてもよいのだという気づきに感動することも大切だと。
さて、訓練の中に感動はあるのだろうか。答えは「ある」訓練と言うと、何かできないことをできるために努力するイメージがあるが、そんなものではない。訓練は、手順の確立にその本質があるのだと思う。つまり、より自然に、無意識的に反復できるようになる、ごく自然な営みである。そのためのコツをつかむのが訓練である。
そんなことを考えつつ、ごく自然にという、ある意味では、難しい内容であったとしても簡単に思え、気づきとともに楽しくなるようなやり方を模索していくことを真摯に考えること、そのための日々の研鑽が必要ではないかと思っている。
雨が降り続いている。雨樋を流れる水音に耳を傾ける。新幹線の高架橋から聞こえてくる走行音も雨音に消され、日常生活音から離れた静寂さを味わっている。
今日は、仕事帰りに「天麩羅」を食べた。熱々で出されるそのチェーン店の安さと、そこそこの味に満足し、サービスについて考えている。
職場では、相手方の市役所とケースワーカーとのボタンのかけ違いがあり、その修復に一日費やした。お互いに相手がやってくれるはずというだけのものだが、それぞれが自分の主張ばかり。自分の話し方が誤解を招いていると思えないところに、なんとも言い難い気分になる。
3年間を過ごした関東の職場で、上司に対して、明確な指示だしをしなければ混乱することを随分指摘されたなぁと反省しきり。まだまだ、未熟者ではあるが、きちんと誤解が生まれないようにと改めて、気を引き締めた。
また、問題が生じた場合に、スピード感を持って、早々に取り組むことの大切さも指摘されていたなぁ等と感じながら、ケースワーカーさんに、アドバイスしたけれど、それでよかったのかを思案中。
一番は、関わる利用者さんにとって、どうなのかなのだが、普段の自分の仕事ぶりを、折々に徹底検証することの必然を感じている。
今日は、仕事帰りに「天麩羅」を食べた。熱々で出されるそのチェーン店の安さと、そこそこの味に満足し、サービスについて考えている。
職場では、相手方の市役所とケースワーカーとのボタンのかけ違いがあり、その修復に一日費やした。お互いに相手がやってくれるはずというだけのものだが、それぞれが自分の主張ばかり。自分の話し方が誤解を招いていると思えないところに、なんとも言い難い気分になる。
3年間を過ごした関東の職場で、上司に対して、明確な指示だしをしなければ混乱することを随分指摘されたなぁと反省しきり。まだまだ、未熟者ではあるが、きちんと誤解が生まれないようにと改めて、気を引き締めた。
また、問題が生じた場合に、スピード感を持って、早々に取り組むことの大切さも指摘されていたなぁ等と感じながら、ケースワーカーさんに、アドバイスしたけれど、それでよかったのかを思案中。
一番は、関わる利用者さんにとって、どうなのかなのだが、普段の自分の仕事ぶりを、折々に徹底検証することの必然を感じている。
生活課題について考えている。生活と言うレベルで考えた時、それぞれの要素を区分けすることに意味がないのかもしれない。もちろん、詳細に分けることで必要とされる問題解決のための方策が明らかになるのだけれど。が、普段の生活実感に根差す感覚は、一つながりの感覚だ。だから、歩行訓練とか、PC訓練とかに分けてしまうと、なぜそれが必要なのか見えなくなってしまうことがある。
長年、専門職として生きてきたためか、柔軟に発想することが難しい。仮に、言葉と表現できたとしても、一つながりのものを自然な形で提示することは困難を極める。たとえば、利用者の求めているものは何か。サービスや訓練と言う形ではない。そのサービスや訓練を受けることによる効用が、満足さという評価として現れる。けれど、実際のところ、関わった人たちがどれだけ満足しているかを判断するのは難しい。なぜなら、とても感覚的なものだから。
効果を現わすうえで大切なのは、具体的な目標を達成しているかどうか。例えば、自宅から駅まで、普通の人なら10分で歩けるとしよう。視覚に障害が生じた場合、その程度によって、安全で、確実に歩くには13分から15分かかるかもしれない。しかし、訓練をすれば、誰もがその時間で歩けるとすれば、目標を達成することになる。その上で、当たり前に歩けることになったことに対して満足できたとしたら、それが効用のあることに違いない。もちろん、それぞれの個性があるわけだから、そのあたりも勘案しなければならない。あるいは、担っている役割や立場によっては内容も変わってくるだろう。主婦ならば、まずは自然に買い物に出かけられることが第一義的に求められるだろうし、会社員なら通勤経路を歩けることが求められる。
様々な局面に対応できる歩行が望まれるにしても、まずは、本人が歩くことの意味付けができることが大切な気もしてならない。
より深く、より的確な生活課題について、考えられるよう、まずは真摯に耳を傾けられるよう努めたい。
長年、専門職として生きてきたためか、柔軟に発想することが難しい。仮に、言葉と表現できたとしても、一つながりのものを自然な形で提示することは困難を極める。たとえば、利用者の求めているものは何か。サービスや訓練と言う形ではない。そのサービスや訓練を受けることによる効用が、満足さという評価として現れる。けれど、実際のところ、関わった人たちがどれだけ満足しているかを判断するのは難しい。なぜなら、とても感覚的なものだから。
効果を現わすうえで大切なのは、具体的な目標を達成しているかどうか。例えば、自宅から駅まで、普通の人なら10分で歩けるとしよう。視覚に障害が生じた場合、その程度によって、安全で、確実に歩くには13分から15分かかるかもしれない。しかし、訓練をすれば、誰もがその時間で歩けるとすれば、目標を達成することになる。その上で、当たり前に歩けることになったことに対して満足できたとしたら、それが効用のあることに違いない。もちろん、それぞれの個性があるわけだから、そのあたりも勘案しなければならない。あるいは、担っている役割や立場によっては内容も変わってくるだろう。主婦ならば、まずは自然に買い物に出かけられることが第一義的に求められるだろうし、会社員なら通勤経路を歩けることが求められる。
様々な局面に対応できる歩行が望まれるにしても、まずは、本人が歩くことの意味付けができることが大切な気もしてならない。
より深く、より的確な生活課題について、考えられるよう、まずは真摯に耳を傾けられるよう努めたい。
カテゴリー: 総合
投稿者: SuperVisor
連休後半は、暑い日となった。大堰川の水面に映り込む淡い黄緑や青緑、やや濃い深緑や野々宮から奥嵯峨に向かう竹林の緑が、眼に鮮やかだ。今年の連休は、古都の新緑を久しぶりに愛でることが出来た。
少しばかりの余裕があるのだろう。ロービジョンケアについて考える時間も持てた。
今までは、ロービジョンケアをどれだけ実践するかが関心事であった。寧ろ社会的な責任において、いかにケアを必要とする人たちが求めているものを、過不足なく提供できるかが大切なのではないか。ケアに対する本当の満足とはなんだろうかと。
今しばらく、沈思黙考しつつ、これから10年先の未来に向かって、いまからできることを考え、実践していこうと考えている。
目指すべきは、トータルなロービジョンケアだと考えている。道具やテクニックによる差し迫った問題解決もさることながら、心理的なこと、社会的なことも含めた解決策を、その日常性の中にどれだけ取り込むことが出来るか。しかも、一人一人の真の満足度に対して、どれだけの責任を持ち続けられるのか。それは、個人的な技量に即したものでなく、組織的な、つまり、いつ、どこで、誰が行ってもそれ相応の効用があることに対する責任だ。とは言え、暗中模索のレベル。この10年を、一つの区切りとして真摯に取り組もうと考えている。
少しばかりの余裕があるのだろう。ロービジョンケアについて考える時間も持てた。
今までは、ロービジョンケアをどれだけ実践するかが関心事であった。寧ろ社会的な責任において、いかにケアを必要とする人たちが求めているものを、過不足なく提供できるかが大切なのではないか。ケアに対する本当の満足とはなんだろうかと。
今しばらく、沈思黙考しつつ、これから10年先の未来に向かって、いまからできることを考え、実践していこうと考えている。
目指すべきは、トータルなロービジョンケアだと考えている。道具やテクニックによる差し迫った問題解決もさることながら、心理的なこと、社会的なことも含めた解決策を、その日常性の中にどれだけ取り込むことが出来るか。しかも、一人一人の真の満足度に対して、どれだけの責任を持ち続けられるのか。それは、個人的な技量に即したものでなく、組織的な、つまり、いつ、どこで、誰が行ってもそれ相応の効用があることに対する責任だ。とは言え、暗中模索のレベル。この10年を、一つの区切りとして真摯に取り組もうと考えている。