LVST-Tokyoトップへ

過去の投稿

October 2010 の投稿一覧です。
カテゴリー: 総合
投稿者: SuperVisor
10月の下旬になって、一気に秋らしさを感じている。今年の夏は半端じゃなく、体力・気力的にも少しダウン。ここにきて盛り返しているところ。文化祭も無事に終わった。年末までカウントダウンに入った。今年は、例年になく、様々なことが起こった。妻の乳がんの手術、父の角膜移植、母の白内障手術。長男の就職と次男の就活。それだけ、歳をとったのだと思いつつ、これから、もっといろいろなことが起きるのだと覚悟している。死んだ祖母のアパートの更地化も、もめにもめた。生きているからこそなのだが、しかし、次々に課題が押し寄せてくると、正直なところ投げ出したくなる。それぞれに、不安なことや心配事があるからで、そのことに、どれだけエネルギーを水と吸い取られているんだろうなどと考えてしまう。
考えてみると、日常の人間関係に悩み、傷つき、喜びもするのだが、淡々と石を穿つ雨滴のように、地味で確実な実践ともなるとこころもとない。雨滴が時間をかけても石を穿つのは、その一点にエネルギーが集中しているからだが、日常の仕事ともなると少々怪しい。継続することが大切なのはわかっているものの、いつもと同じ繰り返しをしてしまうのである。
ロービジョンケアを始めて、この年末で21年。あと10年を継続できるのだろうか?
そんなことを考えていた折、いままで関わっていた会が、独自にセルフトレーニングに向け、当事者やそれを支援する人たちによって新たな動きが出てきていることを知った。地域に生き、地域で育ち、地域で支えあう。つながりこそが大切で、そのつながりが、確実に結ばれ始めると無性にうれしくなるのは、僕だけだろうか?
カテゴリー: 総合
投稿者: SuperVisor
理療教育課程の利用者さんにEye Movement 訓練を2年半ぶりに再開した。二人とも網膜色素変性症で、中心から少し下の方に視野が残っている。また、左右差があって、上下に少しズレている。そのため、優位な眼で固視していて疲れてくるとスイッチが変わり、悪い方の眼が優位になる。その時に、ズレがあること、視力の差があることで、一瞬見ているものを見落としてしまう。眼が視対象を探索するため、ウロウロしてしまう。結果、眼が悪くなってしまったと思い、気持ちが落ち込むのだ。
誰もが、そういった現象をなかなか受け止めることができない。精神的に落ち込むのである。鬱的症状が出る。必要以上にもがき苦しむのだ。自分自身が、困ってはいるもののなんとかやり過ごすことができるときや、視野や視力がある程度あるときには、余裕があってEye Movementの必要性を感じない。そのこと自体致し方ない。
しかしである。ある程度余裕のある時にこそ、真摯に自分自身の眼を用いて、体感的に理解することがいかんともしがたい状況に陥った際に、自らを引き上げてくれる。その事実をどのように伝えればいいのか、平成元年からずっと模索している。
準備することは、難しい。まだ、大変さが現実化しないときに、将来のことを見据えて取り組むことは、将来が不安に彩られていたとしても、すっと受け止めることはできず、とりあえず、経験しておけばいいのだと思うのである。
くだんの二人も同じ。いよいよ、現実として困った。だから解決したいと思った。その間、見えにくさに飲み込まれ、心は千々に乱れた。いま、Eye Movementを始めて、もう少し前に取り組んでいたら、随分楽だと思いもしている。そう後悔することも必要なのではないだろうか。順風万般のときには、体感できにくい現実がここにもあるように感じた。この二人に対して、背水の陣で、向き会えるよう取り組むことが、その未来を切り開くことになるのではと、いま、思っている。
カテゴリー: 総合
投稿者: SuperVisor
秋の深まりををここ一週間くらいで感じ始めている。Eye Movementの視標となるものを様々に作っては捨て、作っては捨てしている。なかなか、満足にいかない。ここ数年、出会う人たち一人一人にあうものを作ってこなかったなあと反省しかり。どのようなものを作れば使ってもらえるのだろうと自問自答している。
今年は、自分の感じ方が変わったのだろう。緑を見ていても「輝いて」見える。心境が大きく変わったわけではない。が、葉っぱ一つ一つが輝いて見える。その美しさに目を見張っている。そして、トレーニングに用いる視標もしっかりと輝いて見えるような工夫をしたいと思った。毎日、使うものだからこそ、使いたいと感じてもらえるものにしたい。
言葉にすると簡単なのだが、なかなか難しい。どれくらいの大きさや輝度が必要だろうか。白黒反転もいいけれど、色彩豊かなものも捨てがたい。
このような気持ちでいることも久しぶりだと思いつつ、今日も自分の中にあるアイデアを形に結ぼうと苦戦している。

ある人と話している中で、20代、30代で、自然を見ても心に残らなかったことが、最近はよく残るということで一致した。物覚えは少々苦手になったと笑いながら、人生が豊かに彩られているからかもしれないと。木立の陰影に、若いころは心をときめかすことはなかった。旅先で様々なものを見てはきたが、今ほど心の中に残ることはなかった。けれど、今は毎日の生活の中で、ものが輝いてみえるのだ。このことを思索することも、これから取り組みたい一つではあるが、自分が形に結ぶトレーニング用のちょっとしたものも大切にしたいものだ。