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過去の投稿

August 2010 の投稿一覧です。
カテゴリー: 総合
投稿者: SuperVisor
今年就職した長男の配属先が決まった。今月末まで大阪で研修を受けていたが、配属先は北関東支店。つくば市だそうだ。二男ともさっそく連絡を取り合っていて、兄弟があることを、うらやましく感じたりしている。父親としては、三人で酒が飲める楽しみができたとほくそえんでいる。早々、10月31日と12月12日は予定を空けておくように話した
さて、最近、ロービジョンの相談の中で会社や学校で自分自身が取り組みたいことがあって、何とか解決したいと専門職を頼って相談した際に、「それは無理。別の道を模索しては」と言われ凹んでいる話が多い。若いころ、ともにロービジョンケアについて議論し合った仲間の中にも、平然と「見えないから、あきらめて新しい道を模索した方が利口だよ」とアドバイスをする人もいる。中には、「ロービジョン者は結局見えないんだから・・」まあ適当でいいよという輩もいる。
ここ数年、ロービジョンの中にもそういう人がいる。「困っていないんですけど・・・」「とりあえず・・・知っておいた方が」と。
そこで思うこと。どうしてチャレンジしないんだろう?できない理由を探すなら、最初からやらなければいいような気がする。



カテゴリー: 総合
投稿者: SuperVisor
実習生が9名、24日から来ている。息子たちとほぼ同じ年齢のその人たちの記録を読みながら、自分自身の文章力の稚拙さなどを感じている。その自分が、実習生の総括担当者として実習記録の、コピーの方に赤ペンでビッシリと添削している。妙な感じがするものの避けて通れないと、一生懸命取り組んではいる。
息子たちとは違ってと様々な会話はするものの、いったいどれだけその本心に肉薄しているかは疑問ではあるが、第三者であるということが幸いしているのか、または、他人であるという気楽さなのか、思いのたけを話せるのである。
ただ、彼や彼女らの求めていることを的確にとらえられているかは疑問である。記録を読みながら、どのように書き、アドバイスをすればよいのか、悩んでいる。
カテゴリー: 総合
投稿者: SuperVisor
日中、喫煙所で、なぜか蝉の話になった。ここ数日、日中でもツクツクボウシが鳴いているけど、明け方からニイニイゼミが鳴いていて、まだまだ暑いねぇということから、クマゼミを関東でもよく聴くけど、昔はなかったというたわいのない話である。リンゴの北限が上がっていることやミカンの産地が北上しつつあることなど話題が尽きなかった。
季節感と言うのは、音や匂いはもちろんのこと、視覚的な変化の中で感じることも多い。一番感じやすいのは、音かもしれないけれど、その土地土地の音風景が生態系の変化によって変わりつつあるのも事実なのかもしれない。
食卓にのる食材の変化も季節感に溢れている。その土地土地で採れる食材も随分違っている。九州で食べるウニはムラサキウニだし、北海道で食べるウニはバフンウニだ。ムラサキウニは繊細な感じがするし、バフンウニは、おおらかな味だ。牡蠣も南と北では、味の濃厚さが違っている。いずれにしても、その土地の地味を体現している。
仕事の終わりがけにある人から電話がかかってきた。内容は、20歳の青年で調理師をしているその人の、最近目が悪くなってきて、仕事を続けていくうえでどのような創意工夫をすればよいのかというもの。考えてみれば、男性で調理好きな人は多い。ある種こだわりを持って作っているが、料理のレシピも含め、おいしく作るためのノウハウはインターネット上に溢れるほど。加熱一つとっても様々な方法がある。自分や家族のために作るのと、不特定多数の人に提供するとのでは、味はもちろんのこと、視覚的な見せ方も含めて違いがある。器の選び方一つでも食欲の刺激は違うだろう。
その青年に週末に会うこととして、どのように調理師として生き残るかをともに考えることになった。かつて、九州で創作料理で成功した板前さんのことを思い出しながら、その青年に会うのを楽しみにしている。
カテゴリー: 総合
投稿者: SuperVisor
夏休みが終わった。今年は、思いのほか、ゆったりとした時間の中で家族とともに過ごせた。普段見られないDVDや本も読めた。自宅の縁側に座り、柴犬とも戯れた。当たり前だが、こういう時間を過ごせることもまた、日常の中での自然な姿なのだろう。しかし、暑かった。屋外に出るとジリジリと肌を刺すような暑さ。ほんの少し動いただけで汗びっしょりになる。こんなに暑い夏を過ごしのも久しぶりの気がする。地球温暖化の中で、来年はもっと暑くなるのかもしれないが・・・。
夏休み期間に読んだ「香り」の本の中でさくらの匂いについて触れたものがあった。さくらの香りと言うのは奥ゆかしいものらしい。が確実に香るものであるらしい。とりわけ、サトザクラ系のさくらが匂うのだそうだ。
バラもオールド系とモダン系だと、オールド系のバラの方が香りがいいのだそうだ。考えてみれば、新緑のころの青葉の匂いと盛夏のころの葉の匂いは違う。磯の匂いも春夏秋冬では匂いが違う。そう考えると、日常生活の中で匂いを楽しむことが少なくなっていたなあと改めて感じるのである。あと、どれくらいの四季の移ろいを楽しむことができるかわからないが、少なくとも一年一年の積み重ねの中で、その季節の匂いや音や肌触りなどを感じたいと思う。肌触り感で言うと、夏の突き刺すような暑さと冬の寒い日の陽だまりの中でホコホコした温かみのある感触も違う。
そうか、感じることも意識化しないと駄目かもと思った夏だった。
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投稿者: SuperVisor
今日から夏期休暇。数日間はゆったりとした気分で過ごせそうだ。京都に帰り着くころは、五山の送り火も、嵐山の灯篭流しも終わっていることだろう。子どものころから、夏の風物詩であるこれらの行事を済ませると、宿題に追われる日々となる。そうは言っても、ほとんど、何もせず時間だけが経っていくのだが。
長じた今でも、切羽詰まらないと動かないのは、子供時代の怠惰さが尾を引いているのかもしれない。
しかし、最近は毎日毎日が、慌ただしく過ぎ去っていく感じ。これではいけないのだと思いつつも、動中の工夫ができていないのである。腹式呼吸をし静の中で、心を落ち着けることもあるが、いざ、日常生活の中では気が散漫になっている。動の中でこそ、しっかりとものごとを注視することが大切なのだろうが、無意識的にパターン化してみるのか、細かな点が危ういのである。
カテゴリー: 総合
投稿者: SuperVisor
夕暮れ時、職場の玄関から外に出ると、コオロギが鳴いている。残暑の折、夕方にでもなると、秋の虫が鳴きはじめる。そう言えば、二三日前にツクツク法師の鳴き声を耳にしたなあ
等と思い返してみる。確実に、季節が動いているのだ。聴覚的な流れの方が季節感はとらえやすいかもしれない。視覚的にはと言うと、台風4号の動きがあって、雲の多い、しかも生暖かい雨が降る一日だった。部屋に戻って部屋の片づけに夢中になっていてふと、落ち着いたときに聞こえてきたのは、ニイニイ蝉の鳴き声だった。まだまだ、暑いのである。


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投稿者: SuperVisor
久しぶりに心地よい小鳥の鳴き声に包まれて目が覚めた。ここ数日、夏の暑さが和らぎ、一息ついた感がある。自然な鳥の声が、早朝の涼しさを増してくれる。最近のことだが、BBCのradio4でイギリスの沿岸沿いの鳥の鳴き声を紹介する番組があった。声の質がやや金属的で好みではないけれど、録音技術の高さやその鳥の習性がイメージできるのは、感動的であった。いまはあるかどうか知らないが、NHKでも鳥の鳴き声を聴かす番組があった。
ノーベル賞作家の大江健三郎氏の息子の光さんが、生まれたときに脳に障害があって、長く語れない時代があったようだが、NHKの鳥の番組を心に銘記していたのだろう、あるとき、背負った背中から「くいな」ですと言ったことを作品としてまとめられていた。
いま、高次機能障害の方と接する場面が日常的にあるのだが、この話をよく思い出す。言葉として表出しないとしても、心というか感情レベルでは様々に感じていて、その表出の枠組みが違うだけではないかと。
見え方についても同じだと感じている。問題のない眼であっても、ある眼でも、そのもの自体を認識しようとするかしないかで、知覚され認識される内容の深さは当然異なってくる。
別の言葉で言えば、好奇心があるかないかで自らに取り込む力は異なってくる。興味があって、知りたいと思えば必死で眼を活用もする。しかし、ただ漠然と見ていては、網膜に投影されていても情報としては処理されない。日常的に見ているつもりだが、見ていないことが多いように思うのは私だけだろうか。
今日目覚めたとき、鳥の声が心地よかったのは、雑念が少なかったから。じっと耳を澄まして、今日の音はどんな風に聞こえるだろうと意識が覚醒してくる中で少し気を向けた結果だ。ここのところ、朝の目覚めはそんなによくなく、時間を気にしていた。と同時にあれこれ段取りなんかを思いめぐらし、自然の音を聴く余裕がなかった。そんな風に思う。
明日もまた、目覚めていく過程を楽しんでみようと考えている。
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投稿者: SuperVisor
原職復帰する上で、「大切にしたいものはなんですか?」との問いかけにどのように応えるのか。本人の復職したい強い意志が肝心ではあるが、その意思を保ち続けることは難しい。
障害を受容する中で、時間的に「無為」な時間を過ごすことが多い。逡巡しずきて、具体的に生き切れないことがあるから。一方で障害を受けとめられると、その本気で悩み、苦しんだ時間があったから「いまがある」と思える。その分かれ道はなんだろう?
いま、原職復帰に向けて取り組んでいる夫婦がいる。旦那さんが中途の視覚障害となった。
復職に向けての意欲もある。家族の協力もそこそこ。子どもが大学進学を目指して受験勉強中。ごく普通の家庭だ。周りも様々に支援している。が、何かが違うのだ。言葉に表現できない。具体的には言えないけれど・・・。
本人や家族の生々しい思いが伝わってこない。冷静なんだけれども、何につけても他人事のような感じ。大切な自身の人生なのに、どこか空虚な感じがする。
人それぞれ感じ方や価値観や大切にしたいものは違うので、こだわりはしないが、改めて、ご本人や家族に、大切にしたいものはなんですか。と問いかけてみたい。
カテゴリー: 総合
投稿者: SuperVisor
真夏の曇った日、木々の葉にあたる光がほどよく輝いていてみえるのがいい。もちろん、ジリジリと焼き付くような光が葉にあたって輝くのもいい。蝉がジユワジュワと鳴くのも、日射しが強いときの方が趣がある。
日中コントラストなんかを考えて風景を見ていると、光量に圧倒されて、しっかり見ていないことがある。空と雲の肌理や土と石の肌理なんかを見ていると、光量によってずいぶん見え方や感じ方が違うように思うのだ。
図と地の関係も、肌理の細かさや明るさが肝心だ。とは言え、結構無自覚に見ている。
まだまだ、見ることに意欲的になりきれていないのかも知れない。
その時その時の、その場その場の見えを楽しむ余裕を常に持っていたい。
カテゴリー: 総合
投稿者: SuperVisor
あるアトピーの青年から拡大読書器について問われた。30代半ばで生活保護受給者。視力は両眼とも矯正視力で1.2。視野も問題ない。強い乱視がある。辞書や文庫本の活字が読めないので拡大読書器が必要だと言う。
もちろん、拡大読書器が必要ならば自費で購入するのも構わない。本人自身の選択の問題だから・・・。
しかしである。確かに強い乱視があって、文字を読むのに疲れることがあるとしても、他の対応が十分になされていないことの方が問題なのではないか。適切な矯正眼鏡が処方されていない。さらに、文字を拡大したところで見えにくさは何ら改善されない。
けれど、その青年は、拡大読書器さえ手に入れれば、文字が読める。それで良いだと。仕事をする必要はないし、あなたには関係ない。使い方も我流でいいではないか。ただ欲しいのだ。
それほど意固地になってしまった原因はなんだろうか?そんなことを考えた出会いだった。