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過去の投稿

December 2009 の投稿一覧です。
カテゴリー: 総合
投稿者: SuperVisor
Oさんが学会に行くというので、どういった学会に参加するのかを聴いた。医療面接に関するものらしい。鍼灸の世界でも、患者さんとのコミュニケーションスキルについて様々試行されているらしい。傾聴することを重視するわけだが、結局は相手の心をどう受けとめるかにかかっている。ということは、心を鍛錬しておかなければ、単なるスキルで終わってしまうということなんだろう・・・・・・。
話を聴きつつ色々な考えが頭の中を駆けめぐった。
カテゴリー: 総合
投稿者: SuperVisor
連携する。協働する。言葉としてはわかりやすい。直ぐにでもできそうな気がする。しかし思いの外難しい。違いが目につく。違いを違いとして受けとめられない。人は区分けすること、違いを違いとすることに長けている。同じ印を持つことも求める。だが、価値観の違いや思想の違いから対立することも多い。いま、COP15で、先進国と新興国、発展途上国との間で環境問題を巡る対立がある。社会構造の中に数え切れないほど対立構造が存在する。
対立構造をここであれこれ語るつもりはない。ただ、違いを自分の立ち位置から考えてみたい。
ロービジョンという枠組みで考えることとする。それぞれの見え方が違う。求心性視野狭窄と中心暗点。中間透光体の混濁の有無。屈折異常の程度によっても様々な違いがある。同じような見え方のタイプでも、視経験の有無等によっても違いが生じる。
当然、「見えにくさ」からくる様々な制約の共通する部分、可能性の共通する部分という点で重なり合うこともある。
では、日常生活でのそれぞれの困難さというものは、同じなのかと問われたとき、実際は違う。マスプロダクトでは解決できない、個々のオーダーメイドでしか解決できない問題が沢山ある。様々に違うからこそ、色々な解決の仕方が生まれ、その解決方法の経験という引き出しが多くあるほど、対応力が生まれる。「清濁あわせ飲む」ゆとりのようなものが畢竟生まれるのだ。
なぜ、こんなことを書き始めたか。それには理由がある。年末ともなると、一年の足跡を振り省り見る機会を誰もが持つ。私の場合、ロービジョンケアで出会った人たちを思い浮かべる。そしてそれぞれの可能性や制約なるものを考える。もちろん出会った人たちに共通する部分もあれば、それぞれ個性的な部分もある。けれど、私は一人ひとりの違いに着目し、その違いから生まれる様々な工夫や解決方法等を思いうかべる。
と同時に、ロービジョンケアの専門職間の連携や協働ができていたかを自らに問うてみるのだ。共通言語を持ってロービジョンケアについて語る努力はしている。が結構手前みそ的である。あるいは、こちらの側に引き込もうとする。違いを違いとして良しとも出来ず、まして楽しむ余裕などない。違うからこそ気づけることが山ほどあるのに、違いを排除しようとする狭量な心が動く。それで、連携が出来ていると言えるだろうか?
12日。今年、最後のロービジョンケアのセルフトレーニングの会。終わりよければすべて良しとなるように心がけたい。一人ひとりの違いに着目して、その人にとって一番を求められたらと思い、準備に勤しんでいる。
カテゴリー: 総合
投稿者: SuperVisor
明け方に何度も何度も目が覚める。十分に「からだ」を休めたという実感にほど遠く、重いからだを引きずっている感覚が残っている。そう言う日は、心の方も鈍感になっていて、驚きが少ない。仕事ぶりにも反映していることと思う。
なぜか、そう言う日に限って様々なことが起きる。こころと現実が重なり合っているように感じつつも、先ほど述べたように、こころが鈍感な分だけ解決策が見いだせないでいる。今日もそんな一日のひとつ。感情や気分という不確かなものに惑わされたくないにも関わらず、次々と泡のように様々な想念が消えては生じ、生じては消えを繰り返しているのだ。
ゆっくりと風呂にでもつかりながら、体制を立て直すことにしよう
カテゴリー: 総合
投稿者: SuperVisor
秋の夕暮れ。天が茜色から真紅そして薄い藍色から深い藍色に染まっていく。その短い時間の移ろいゆく姿を眺めるのが好きだ。毎日毎日見慣れているといってしまえばそれまでだが、いつも飽きずに見つめている。日常生活の何気ない一齣一こまの実に同じものがないことに驚きを隠せないでいる。
今日は、頭痛のせいか、職場の普段見慣れているカレンダーの数字の輪郭が明瞭でなかった。こめかみのあたりから右の頭頂葉にかけて鈍い痛みがあった。肩も少し凝っている。ここ数日の快晴ではあるが、ひんやりとした空気が、身体を硬くしているせいでもある。
そう言えば、拡大読書器の本を監修することになった。症状にあわせた用い方についてのコツをまとめているのだが、多くを語ろうとすると、焦点を絞りきれずに書き直したりする。病気から来る症状はある程度定型化しているけれど、ものを見るうえで大切なのはあくまでも「視野」だと思う。中心に暗点がある場合は、その暗点の大きさにもよるが、画面にできるだけ近づいて、暗点を小さくすること、眩しさで眼がショボショボするのを防ぐため、遮光眼鏡などをうまくかけることに尽きる。暗点が大きい場合は、身体の正面に画面はおかず、右か左、状況によっては上か下にずらして眼を画面の一部に固定することが大切になる。もちろん有効視野をそこにはめるようにするのだ。
求心性狭窄の場合は、できるだけ画面から離れることが大切になるのだが、手で操作できる範囲の中で、一番扱いやすいポイントを押さえることと視野にできるだけ沢山の文字数を入れることがコツとなる。こういったことをまとめてはするものの、今まで出会ってきた様々な人たちが脳裏を横切り、どういった表現がわかりやすいかなどと考えると、あれもこれも表現したくなる。どれだけ、そぎ落としポイントを明確にするかが勝負であり、何回も推敲している最中である。
夕焼け空をみながら、そんなことを考えていた。
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投稿者: SuperVisor
今日、上野公園に。上野公園では地方の、新潟は、長岡市周辺の市町村の物産展があり、菜種油と酒2本を購入した。
その後、「冷泉家 王朝の和歌守展」を見た。800年前の私家本も個性的で、字は人をよく現しているなどと思った。巻物等に筆で真直ぐ字を書くための罫プレートもあった。天地に糸を張ったもので、これは、今でも凧糸を用いて作れば結構優れものになるなあ等と考えた次第。何時の時代にも、字を上手く書くための工夫があることを感じ、その原点は変わらないものであることにただ感心するばかりであった。別の展覧会は、いままで空海の「理趣教」にかかるイメージが創れきれなかったのが、ふっと「あっ、このことなんだ」と少しイメージ化に成功した感じ。やはり、実物の持つ存在感は大きいと思った。
カテゴリー: 総合
投稿者: SuperVisor
雨音を聴きながら、布団の中でモサモサしていた。夜明け前の一時である。
子どもの頃の雨降りの日には楽しい思い出と、真逆な嫌な思いがあった。楽しい思い出とは、町並みがしっとりとした、肌にも湿り気を感じる質感が心地よいと思えることで、嫌な思いとは、車のシャーッというノイズとその後、水や泥をはねて通り過ぎるその威圧的な雰囲気がどうにも馴染めなかったからだ。
木の葉や枝に雨が水滴となって今にも地面に落ちそうなその時の、水の中に浮かぶ風景はとても美しい。と同時にはかなさをともなっているのもいい。
逆さまに映る風景も、その小さな雨滴の中に忠実に再現されている風景も、雨滴のふくらみの中でデフォルメされている形も、それぞれが面白く感じられ、時を忘れて見つめていた。
布団の中でそんなイメージをふくらませつつ、今日はどんな風にそれらを体験するのかな等と考えていた。
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投稿者: SuperVisor
今週末に再び上野の森へ出かけようと意思している。目的は前回同様美術館巡りだ。一つは都の美術館で開催されている「冷泉家 王朝の和歌守展」、もう一つは聖地ポタラ宮と天空の至宝展」。ゆっくりと見てまわるには人が多すぎるけれど、実物を目の当たりにする感動は、実際の場面に遭遇しないとわからない。イメージが邪魔するからだ。実際よりそのものを大きく捉えていたり、逆に小さく捉えていたり、形態や素材なんかについても見て初めて感じられるものがある。
もちろん、手に取ってみて感じることも必要だろうが、なかなかそうはいかない。かって、子どもたちと町中のストリートファニィチャーとか彫像を触りに触ったことがあった。見た目とは違う質感がとても印象的であった。眼的な表現方法だけではない、質感に伴う表現方法があることを子どもたちの素直に触るという行為の中から気づかされたものだ。
ロービジョン学会の際に、ロンドンの自然史博物館に行った時にも、展示物に触れさせてもらった。そのものの持つリアリィテイは何ものにも変えられないほど新鮮な感覚を味わった。本物の持つ存在感とでもいうべきものなのか。やはり、そういった体験を積み重ねていきたいと思った。
NHKの「音の風景」を最近よく聴くのだが、自分の知っている音風景に出会ったときには、懐かしい響きとその光景を思い出したりする。が、知らないものを聴いていても、創られた音?なのではないかと考えたりもする。しかも、なじみがない分、耳の中を流れていくだけなのである。
今週末の美術館巡りをいまから楽しみにしている。

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投稿者: SuperVisor
夕暮れ時に、仕事の打合わせが終わり、外に出た。敷地内の東屋からふと空を見上げると満月がポッカリと浮かんでいる。広葉樹と東屋、月の位置関係が良く、携帯のデジタルカメラやモバイルカメラを色々と選択して写してみた。これが、思いの外難しかった。
「機械の眼」と「人間の眼」ということを考えることがある。
よく、カメラに例えて人の眼を表現することがあるが、構造としての機能は似ている。しかし、違うのはその情報をあるがままに映し出すのが機械なら、人間の眼はデフォルメして認識する。実際の見え方とそれを処理する系がなす技だと思う。中天に浮かぶ月は小さく、山ぎわや建物に近い月は大きく感じる。
実際のところ、脳が認識しているわけだが、その脳の情報処理の「あるがままに」とらえることの難しさがあるような気がする。錯視図形等を見ると、実際ものの大きさが同じであったとしても、描き方ひとつで違って見える。エッシャーの絵図などでは、本来つながっているはずのない空間がつながっており、あり得ない空間が描かれたりする。
とにもかくにも、視覚の不思議さを感じる一時であった