カテゴリー: 総合
投稿者: SuperVisor
どこまで応援団になりうるのか?そんなことを改めて考える。と言うのも、いつものように、「ロービジョンケアを必要としている人がいるのだけれど、原職を続けていく上で、『いま』を逃すとまずいように思うのですが・・・」等という電話が掛かってくる。それも、ロービジョンケアがまだ発展途上の地域ともなると複雑な心境になる。具体的にそこへ行って、保有視覚の活用方法や場合によってはその他の感覚を用いて生き残れる可能性を伴に探りたいのだけれど、現実には難しい。よく知っている人たちや組織があれば、迷うことなくつないだりもする。が、なかなか、そういう状況がない。
今日もまた、そういう相談を受けた。相談してくれた専門職に、その地域で取り組んでくれそうな人の紹介をしつつ、紹介した人たちに「もしかしたら、相談があるかも知れないのでよろしくお願いします。」等と話す。当事者の様々な欲求に応えるには人的資源は限られていることもあり、うまくつながっていくことを望んだりする。
そこでもまた、自分自身に問いかけるのだ。「どこまで応援団になりうるのか?」と。
「いまの相手が必要とするものは何か?その地域に社会資源がなかったら、簡単に諦めはしないか」「どうすれば、迅速につながっていくことができるか」「自分がスーッと発想したかのような自然さで取り組めるようにするには・・・」等と考えてしまうのだが、実際は、頭で考えていることより、その人の機(タイミング)があえば自然に動き出すことも事実である。悩みは尽きない。
今日もまた、そういう相談を受けた。相談してくれた専門職に、その地域で取り組んでくれそうな人の紹介をしつつ、紹介した人たちに「もしかしたら、相談があるかも知れないのでよろしくお願いします。」等と話す。当事者の様々な欲求に応えるには人的資源は限られていることもあり、うまくつながっていくことを望んだりする。
そこでもまた、自分自身に問いかけるのだ。「どこまで応援団になりうるのか?」と。
「いまの相手が必要とするものは何か?その地域に社会資源がなかったら、簡単に諦めはしないか」「どうすれば、迅速につながっていくことができるか」「自分がスーッと発想したかのような自然さで取り組めるようにするには・・・」等と考えてしまうのだが、実際は、頭で考えていることより、その人の機(タイミング)があえば自然に動き出すことも事実である。悩みは尽きない。
視聴覚障害者支援センターのKさんから十数年ぶりに電話をいただいた。ロービジョンケアについての問い合わせ。視覚障害者の団体からロービジョンケアについての要望があり、ふと思い出したのだという。
この人とは21年前、まだ若かりし日に、大阪の日本ライトハウスで、視覚障害者の歩行指導員養成課程で、半年間、研修でご一緒させていただいた。そのころ、まだ、ロービジョンケアという言葉もなかったが、保有視覚については興味・関心があった。同時に聴覚、触覚の不思議さにこころひかれてもいた。
ライトハウスの福島先生の「聴覚」の理論がおもしろかったし、芝田先生の博学ぶりに舌を巻いたものだ。新しいことを識る喜びに目覚めたのかも知れない。半年間の研修期間を京都の実家から大阪の放出のそのセンターへ通う時間は、貴重な動く書斎となり沢山のことを学んだ。講義が終わった後、梅田の紀伊国屋書店に毎日のように足を運び、本をどっさりと買い込んだものだ。いまは懐かしい思い出のひとつである。
Kさんの話を聴きながら、ケアの格差を思わずにはいられなかった。大都市圏では、ロービジョンケアは、複数の施設もあり連携も構築されている。地方の基幹都市と言えどもロービジョンケアはもうひとつだと思う。地域の中でロービジョンケアを担う施設や機関がほとんどないからである。視覚を意識化して活用することを納得してもその道具の効率的な使い方や工夫の仕方を様々に一緒になって取り組んでくれる専門家が少ないのが現状である。そんな中で孤立無援のような中でロービジョンケアを考えている仲間がそこに存在すること自体、有り難いなぁ等と感じた。
この人とは21年前、まだ若かりし日に、大阪の日本ライトハウスで、視覚障害者の歩行指導員養成課程で、半年間、研修でご一緒させていただいた。そのころ、まだ、ロービジョンケアという言葉もなかったが、保有視覚については興味・関心があった。同時に聴覚、触覚の不思議さにこころひかれてもいた。
ライトハウスの福島先生の「聴覚」の理論がおもしろかったし、芝田先生の博学ぶりに舌を巻いたものだ。新しいことを識る喜びに目覚めたのかも知れない。半年間の研修期間を京都の実家から大阪の放出のそのセンターへ通う時間は、貴重な動く書斎となり沢山のことを学んだ。講義が終わった後、梅田の紀伊国屋書店に毎日のように足を運び、本をどっさりと買い込んだものだ。いまは懐かしい思い出のひとつである。
Kさんの話を聴きながら、ケアの格差を思わずにはいられなかった。大都市圏では、ロービジョンケアは、複数の施設もあり連携も構築されている。地方の基幹都市と言えどもロービジョンケアはもうひとつだと思う。地域の中でロービジョンケアを担う施設や機関がほとんどないからである。視覚を意識化して活用することを納得してもその道具の効率的な使い方や工夫の仕方を様々に一緒になって取り組んでくれる専門家が少ないのが現状である。そんな中で孤立無援のような中でロービジョンケアを考えている仲間がそこに存在すること自体、有り難いなぁ等と感じた。
一人ひとりのロービジョンの人たちの見え方について、あれこれイメージしつつ工夫を重ねてきてはいるが、いまだ不十分な気持ちがある。できるだけ、相手の本心を訊くように努めてはいるものの、どちらかというと推測や思惑が入っているような気がしてならない。「傾聴する」姿勢が大切だと言われる。「きく」というのを辞書で引くと「聞く」、「聴く」、「訊く」がある。どのような「きく」をしているかによって、相手の見え方の状態把握の深さが異なってくるように感じている。
ロービジョンの人たちに「どんな風に見えていますか?」「日常的な見え方について説明してください」と問いかけたとき、自分の見え方を伝えようと色々に表現してくれる。きく側が、視覚機能の特性を識り、かつ、日常生活場面を様々に想起しつつその話に耳を傾けていると、霧が晴れるような感じて「ああ、こう言いたいのだな」というのがわかるときがある。実際の見え方は、個々人によって違うわけだから、一般論として語ることができたとしても、さじ加減のような微妙な感覚が残る。
日常生活の生活の仕方も様々である。無くて七癖という表現があるが、同じような行動をしているように見えても使われる筋肉なんかも微妙に違う。歩き方一つもそうだし、書く動作にしてもそうだ。当然のことながら、視覚情報に対する注意の勾配の仕方も違う。
ある人にとっては、関心を引き細部にわたって把握することであっても、別のある人にとっては、意味のない、いや意識にすらのぼらない情報であったりする。
もちろん、日常生活において注意を分配したり集中したりして、自分にとって必要な情報を切り出している。しかし、文化とか興味とか、関心とかの向きによって注意される勾配の程度はかなり違うのではないだろうか?
テーブル上の何気ない毎日の繰り返しやそこに置かれているものも、個々人の日常生活では同じものであるはずはないのだけれど、ある程度人の話をききつつ、自分勝手なイメージをつくりあげて、「たぶんこうしたら生活が楽になりますよ」と一般論で語っているような気がするのである。
最近、人と語り合うとき、その人の生活の「注意される勾配」がどのようなものか、ふと考えている自分に気づくのである。
ロービジョンの人たちに「どんな風に見えていますか?」「日常的な見え方について説明してください」と問いかけたとき、自分の見え方を伝えようと色々に表現してくれる。きく側が、視覚機能の特性を識り、かつ、日常生活場面を様々に想起しつつその話に耳を傾けていると、霧が晴れるような感じて「ああ、こう言いたいのだな」というのがわかるときがある。実際の見え方は、個々人によって違うわけだから、一般論として語ることができたとしても、さじ加減のような微妙な感覚が残る。
日常生活の生活の仕方も様々である。無くて七癖という表現があるが、同じような行動をしているように見えても使われる筋肉なんかも微妙に違う。歩き方一つもそうだし、書く動作にしてもそうだ。当然のことながら、視覚情報に対する注意の勾配の仕方も違う。
ある人にとっては、関心を引き細部にわたって把握することであっても、別のある人にとっては、意味のない、いや意識にすらのぼらない情報であったりする。
もちろん、日常生活において注意を分配したり集中したりして、自分にとって必要な情報を切り出している。しかし、文化とか興味とか、関心とかの向きによって注意される勾配の程度はかなり違うのではないだろうか?
テーブル上の何気ない毎日の繰り返しやそこに置かれているものも、個々人の日常生活では同じものであるはずはないのだけれど、ある程度人の話をききつつ、自分勝手なイメージをつくりあげて、「たぶんこうしたら生活が楽になりますよ」と一般論で語っているような気がするのである。
最近、人と語り合うとき、その人の生活の「注意される勾配」がどのようなものか、ふと考えている自分に気づくのである。
カテゴリー: 総合
投稿者: SuperVisor
糖尿病網膜症のある青年から久しぶりに電話があった。全盲になり、生活訓練を受け、原職復帰を果たした。職場では音声パソコンを活用して、事務作業を行っている。その彼が、テープ起こしをし、パソコンを活用して資料を作成するコツ等を他の人に伝えたいと話してくれた。
また、尊敬する上司との出会いがあり、一緒に仕事をする時間を大切な時として送りたい、そのために、関われる時間を優先して、できるだけ色々なことを学び納めたいとの話をしてくれた。
その話を聴きながら、そういう出会いに恵まれることの素晴らしさと、本人のたゆみない努力がその現実を引き寄せているのではないか等と考えた。
また、尊敬する上司との出会いがあり、一緒に仕事をする時間を大切な時として送りたい、そのために、関われる時間を優先して、できるだけ色々なことを学び納めたいとの話をしてくれた。
その話を聴きながら、そういう出会いに恵まれることの素晴らしさと、本人のたゆみない努力がその現実を引き寄せているのではないか等と考えた。
見ることや聴くことは本当に難しい。認識や判断といったものがすっと入ってきて、あるがままの現実(事実)を歪めてしまうところがあるからだ。生理的にそのままを見ることの正確さをあげるために、あれこれ想いを巡らせている。
ある人の誘いで旭川へ出かけた。こぢんまりとした集会の、その膝つき合わせるような空間がなんとも心地よかった。話も沢山するわけでもなく、ほんの20分くらいのものであった。語りすぎず、ほどよい程度のしゃべりを今後は気にしつつ、起承転結を考えたいなぁなどと思った。
その後、拡大読書器の使い方に話題が流れ、実際にそのひとの視野の状態を確認しながら、この器械の可能性や制約などを話し合った。
道具が立ち現れるには、その道具でより豊かな状況へと転換したいという意図が見え隠れするのだが、実際のところ開発者の意図が伝わっていないことが多い。しかも、ある程度使えそうなものであればあるほど、適当な使われ方をしてしまうような気がする。
ロービジョンケアから考えると、当事者が視覚機能を十分理解した上での操作を考慮したい。たかが道具が、されど道具となるからだ。
その後、拡大読書器の使い方に話題が流れ、実際にそのひとの視野の状態を確認しながら、この器械の可能性や制約などを話し合った。
道具が立ち現れるには、その道具でより豊かな状況へと転換したいという意図が見え隠れするのだが、実際のところ開発者の意図が伝わっていないことが多い。しかも、ある程度使えそうなものであればあるほど、適当な使われ方をしてしまうような気がする。
ロービジョンケアから考えると、当事者が視覚機能を十分理解した上での操作を考慮したい。たかが道具が、されど道具となるからだ。