カテゴリー: 総合
投稿者: SuperVisor
夜の帳が降りる。深い闇があたりを包む。そんな光景が無くなってしまった。妙に明るい。闇を追放することは一見良いように感じる。活動できる時間が増えたように感じるからだ。けれど、生活に余裕が無く、感性を楽しむ時間がないのだ。スローライフがもてはやされる所以ではないか?
今日も意識的に見ようと眼を凝らしていた。網膜上には別の人やものとしてとらえていたはずなのだが、イメージが先行して違う人やものとして認識してしまった。先入観を排除しているのにだ。「如実知見」と言う言葉がある。あるがままに見るという意味だが、
実はとても難しい。これは、先入観を排除して事態を正確にとらえることを旨としての表現なのだ。しかし、曇った眼は、生理的な事実すら正確に捉えられないのだと感じた。
曇った眼というのもたとえなのだが・・・。
例えば、普段身につけている財布を正確に思い出してとか、携帯電話を紙に正確に書くと言うことも意外と難しい。そのものを前にして書くのはそれなりに書ける。絵心を無視してもだ。しかし、イメージ化して書くとなると細部にわたって書くことが意外と難しい。見ているようで実は見ていないのだ。
もちろん、特徴をそれなりにつかみ形態をイメージ出来れば、書き表すことは難しくはない。ただ、視覚的なイメージが創れる人の話だ。ぼくは、視覚化しにくいタイプである。人の顔を思い浮かべることも、感動するほど美しい風景を思い浮かべることも出来ない。なのに、視野の狭さだとか、机の上であるものがどのように見えるのかをイメージすることは容易に出来る。なんとも矛盾している。
数字を見ると色が見えるという共感覚の持ち主がいる。感覚機能の未分化がそうさせると説明されているが、わからない。ただ、事象をイメージ化してとらえるには、事象の特徴を視覚的に捉えられるか否かだと感じている。すなわち、ある種のトレーニングが必要なのではないか?とは言えわからない。
少しずつ、じっと人やものを観察しようと考えた一日である。
今日も意識的に見ようと眼を凝らしていた。網膜上には別の人やものとしてとらえていたはずなのだが、イメージが先行して違う人やものとして認識してしまった。先入観を排除しているのにだ。「如実知見」と言う言葉がある。あるがままに見るという意味だが、
実はとても難しい。これは、先入観を排除して事態を正確にとらえることを旨としての表現なのだ。しかし、曇った眼は、生理的な事実すら正確に捉えられないのだと感じた。
曇った眼というのもたとえなのだが・・・。
例えば、普段身につけている財布を正確に思い出してとか、携帯電話を紙に正確に書くと言うことも意外と難しい。そのものを前にして書くのはそれなりに書ける。絵心を無視してもだ。しかし、イメージ化して書くとなると細部にわたって書くことが意外と難しい。見ているようで実は見ていないのだ。
もちろん、特徴をそれなりにつかみ形態をイメージ出来れば、書き表すことは難しくはない。ただ、視覚的なイメージが創れる人の話だ。ぼくは、視覚化しにくいタイプである。人の顔を思い浮かべることも、感動するほど美しい風景を思い浮かべることも出来ない。なのに、視野の狭さだとか、机の上であるものがどのように見えるのかをイメージすることは容易に出来る。なんとも矛盾している。
数字を見ると色が見えるという共感覚の持ち主がいる。感覚機能の未分化がそうさせると説明されているが、わからない。ただ、事象をイメージ化してとらえるには、事象の特徴を視覚的に捉えられるか否かだと感じている。すなわち、ある種のトレーニングが必要なのではないか?とは言えわからない。
少しずつ、じっと人やものを観察しようと考えた一日である。
飛行機に搭乗する度に思い出す言葉がある。滑走路の誘導灯の青や緑の色光を「天使の涙」と表現した人がいる。離陸する、着陸する際に窓から眺めていると、光の流れが異なって見える。「天使の涙」という表現が正確なものかどうかはわからない。けれど、僕にはすっきりと受けとめられる表現だ。
ある速さの中で視対象を見ると、その細部まで認識できない。認識できないと思っていても、潜在意識の中にくっきりと痕跡を残している場合がある。無意識のレベルなのだが、確かに感じているのだ。
あるいは、スローモーションのように、一つ一つの動きが細部まで見えるような場合がある。例えばこんなことがあった。公道を自転車で走っていた。後ろからトラックがあおる。道路の駒止に自転車の車輪が斜めにあたる。自転車も身体も前のめりになり、身体が宙に投げ出される。ハンドルから手が離れ、上体から前に飛び、身体がのびる。そしてゆっくりと落ちていく。身体を護ろうとして、両肘をつく。アスファルトにがっんとあたり肘に痛みが走る。自転車が回転して少し横の方へ滑っていく。ほんの数十秒の出来事だが、コマ送りしているように感じた出来事。
どちらの場合も、「時間」がある。しかし、時間軸が違っているように感じる。両者とも認識しているのは視知覚なのだろう。色々と思いめぐらすと、そのどちらも自分の感覚である。とすると、視覚が限定される状況の中でも、とらえられる何かがあるということだと・・・。
ある速さの中で視対象を見ると、その細部まで認識できない。認識できないと思っていても、潜在意識の中にくっきりと痕跡を残している場合がある。無意識のレベルなのだが、確かに感じているのだ。
あるいは、スローモーションのように、一つ一つの動きが細部まで見えるような場合がある。例えばこんなことがあった。公道を自転車で走っていた。後ろからトラックがあおる。道路の駒止に自転車の車輪が斜めにあたる。自転車も身体も前のめりになり、身体が宙に投げ出される。ハンドルから手が離れ、上体から前に飛び、身体がのびる。そしてゆっくりと落ちていく。身体を護ろうとして、両肘をつく。アスファルトにがっんとあたり肘に痛みが走る。自転車が回転して少し横の方へ滑っていく。ほんの数十秒の出来事だが、コマ送りしているように感じた出来事。
どちらの場合も、「時間」がある。しかし、時間軸が違っているように感じる。両者とも認識しているのは視知覚なのだろう。色々と思いめぐらすと、そのどちらも自分の感覚である。とすると、視覚が限定される状況の中でも、とらえられる何かがあるということだと・・・。
川越が舞台になっている「つばさ」という連ドラ。出勤に間に合わないので、昼休みに欠かさず見ている。その中で「小江戸」という小料理屋が出てくる。月に数度行く居酒屋はドラマほど洒落ていない。ほっとする居場所の一つだ。カウンター席に座って小一時間ほど時間を過ごせばそれで満足だ。ビールをほんの少し飲みつつ、話を聴くとはなしに聞いている。たまに隣に座った人と話す。今日もそんな日だった。
話題は食べ物の話だった。味覚の話になるとなかなか面白いけれども難しい。面白いというのは、「甘い」「辛い」「酸っぱい」「苦い」「うまい」と言う限られた言葉の中でそのものを伝えなくてはならないから。難しいというのは、共有したい感覚を言葉で表現するには語彙がたりないから。
例えば、柑橘類は様々な種類がある。ポンカンだのネーブル、オレンジ、グレープフルーツ、ミカンだの・・・。それぞれ甘さや、瑞々しさや香りなど個性揃いであるが、単語としてしっかり表現できる言葉が限られている。
これらの個性を一言で表現できる術が出来れば、より感覚としては開かれていくように感じる。
話題は食べ物の話だった。味覚の話になるとなかなか面白いけれども難しい。面白いというのは、「甘い」「辛い」「酸っぱい」「苦い」「うまい」と言う限られた言葉の中でそのものを伝えなくてはならないから。難しいというのは、共有したい感覚を言葉で表現するには語彙がたりないから。
例えば、柑橘類は様々な種類がある。ポンカンだのネーブル、オレンジ、グレープフルーツ、ミカンだの・・・。それぞれ甘さや、瑞々しさや香りなど個性揃いであるが、単語としてしっかり表現できる言葉が限られている。
これらの個性を一言で表現できる術が出来れば、より感覚としては開かれていくように感じる。
継続することが苦手のようだ。ある程度こまめに記録する。しかし、記録している最中になぜだか面倒になり、投げ出しはしないものの、別の関心事に気が移る。そんな繰り返しをしてきたように思う。その中で、ずっと取り組んでいるものがある。視野の問題と感覚の問題である。
見えにくさをカバーする上で、視覚が思いの外使えない場合がある。その際に、聴覚や触覚を上手く組み合わせることで解決する問題もあるのだが、なかなかうまくいかない。踏み込めないなにかがある。その何かを明確に語ることが出来ないもどかしさ。ここ数年の関心事である。
いま、訓練や気づきをすぐに展開出来ない環境にある。しかしながら、今までの実践を反芻したり、かって訓練してきた記録を眺め観て、少しだけだが見えるものもある。細く長く継続することを噛みしめている。
見えにくさをカバーする上で、視覚が思いの外使えない場合がある。その際に、聴覚や触覚を上手く組み合わせることで解決する問題もあるのだが、なかなかうまくいかない。踏み込めないなにかがある。その何かを明確に語ることが出来ないもどかしさ。ここ数年の関心事である。
いま、訓練や気づきをすぐに展開出来ない環境にある。しかしながら、今までの実践を反芻したり、かって訓練してきた記録を眺め観て、少しだけだが見えるものもある。細く長く継続することを噛みしめている。
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投稿者: SuperVisor
スクリーンリーダーを職場で十分過ぎるほど活用している。けれど、自宅ではパソコンは使いたくない。イヤホーンを使って仕事をしている。電車の中で機械を通した音は聞こえるが、日常会話の低音領域が聞きにくくなっているとの報告を受けた。
片耳にイヤホーンをして、もう一方を開放していると、職場での様々な音、例えば電話に出やすいということもあって、このような使い方をしている人も多いと思われる。
日常的に電車やバスなどの公共交通機関の中で、ウオークマンに代表される音響機器をヘッドホーンを用いて活用している人も当たり前の風景として定着している。大きな音で長時間音を聴いていると難聴になる危険が高いとされている。眼も悪くなり、耳まで悪くなったらと不安になっている人も案外多いのではないだろうか?
最近のオープン型(開放型)のヘッドフォーンの質は良くなっている。周りの音も聴きとれ、かつそれ相応の音で楽しめるものもある。耳をケアすることも、ちょっとしたヘッドフォーンを選択することで可能な時代なのだが、耳のケアを意外と見落としているのではないだろうか?音源の方向性を正確に定位するためには、左右の聞こえの差がないことが大切である。10デシベル以上の差があれば、音はずれる。正面に音があった場合、悪い方の耳には小さく聞こえるために、いい方の耳側にずれる傾向がある。歩行する上では、音が正確に捉えられることが大切な要件なのだが、イヤホーンをして聞こえが悪くなったとしたら、安全に歩く上で支障となる。
話を聴きながら、保有感覚を最大限に活用するためには、その力を維持することをもう少し具体的に提示することが必要であると思った。聴覚、触覚、嗅覚など、それぞれの感覚の持つ力もその感覚器の持つ特徴を意識化することで、十分に様々なことを教えてくれる。聴覚は視覚に次いで情報量を与えてくれ、世界の実相をきちんと把握することが出来る。触覚は手や足の届く範囲のかなり制限された世界を、嗅覚は気化した匂い成分が届く範囲、味覚は口の中に入れた範囲内と狭くなる。
一方で、身体的な順応ということを考えれば、ある刺激に対してより強い刺激に慣れるのが身体機能でもある。マックスウェーバーの法則と言うのだけれど、刺激に対して汎化しやすいことが特徴だ。
ここで言いたいことは、それぞれの感覚器官の持っている本来の状態を生かす上では、適正な刺激を与えることが必要で、強度な刺激や限定された使い方をすることは望ましいとは言えない。そのためにも普段から感覚を手入れすることだと思う。
手入れするとは、例えば音の特性の理解があってなされるものだ。音の反射、屈折、通過等について、日常生活場面で照らし合わせて理解し、音が距離によってどのように減衰するのかを識った上で、場面場面で使い分けてみることにある。大きすぎる音には被曝しないようにする。そうしないと難聴という状態を生み出してしまう。
道具は使うものであって、使われるものではない。そんなことを思った。
片耳にイヤホーンをして、もう一方を開放していると、職場での様々な音、例えば電話に出やすいということもあって、このような使い方をしている人も多いと思われる。
日常的に電車やバスなどの公共交通機関の中で、ウオークマンに代表される音響機器をヘッドホーンを用いて活用している人も当たり前の風景として定着している。大きな音で長時間音を聴いていると難聴になる危険が高いとされている。眼も悪くなり、耳まで悪くなったらと不安になっている人も案外多いのではないだろうか?
最近のオープン型(開放型)のヘッドフォーンの質は良くなっている。周りの音も聴きとれ、かつそれ相応の音で楽しめるものもある。耳をケアすることも、ちょっとしたヘッドフォーンを選択することで可能な時代なのだが、耳のケアを意外と見落としているのではないだろうか?音源の方向性を正確に定位するためには、左右の聞こえの差がないことが大切である。10デシベル以上の差があれば、音はずれる。正面に音があった場合、悪い方の耳には小さく聞こえるために、いい方の耳側にずれる傾向がある。歩行する上では、音が正確に捉えられることが大切な要件なのだが、イヤホーンをして聞こえが悪くなったとしたら、安全に歩く上で支障となる。
話を聴きながら、保有感覚を最大限に活用するためには、その力を維持することをもう少し具体的に提示することが必要であると思った。聴覚、触覚、嗅覚など、それぞれの感覚の持つ力もその感覚器の持つ特徴を意識化することで、十分に様々なことを教えてくれる。聴覚は視覚に次いで情報量を与えてくれ、世界の実相をきちんと把握することが出来る。触覚は手や足の届く範囲のかなり制限された世界を、嗅覚は気化した匂い成分が届く範囲、味覚は口の中に入れた範囲内と狭くなる。
一方で、身体的な順応ということを考えれば、ある刺激に対してより強い刺激に慣れるのが身体機能でもある。マックスウェーバーの法則と言うのだけれど、刺激に対して汎化しやすいことが特徴だ。
ここで言いたいことは、それぞれの感覚器官の持っている本来の状態を生かす上では、適正な刺激を与えることが必要で、強度な刺激や限定された使い方をすることは望ましいとは言えない。そのためにも普段から感覚を手入れすることだと思う。
手入れするとは、例えば音の特性の理解があってなされるものだ。音の反射、屈折、通過等について、日常生活場面で照らし合わせて理解し、音が距離によってどのように減衰するのかを識った上で、場面場面で使い分けてみることにある。大きすぎる音には被曝しないようにする。そうしないと難聴という状態を生み出してしまう。
道具は使うものであって、使われるものではない。そんなことを思った。
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投稿者: SuperVisor
職場周辺は緑豊かな環境である。今日、ふとした話から音環境の話になった。見えているときは拡大鏡を用いて、今は視力で補えない場合は音を活用しているとのこと。話していて楽しかったのは、毎日の生活の中で、例えば虫の鳴き声の、ちょっとした変化を見逃さず、自然の確かな足取りを感じていることをお互いの話の中で見いだせたからだ。
更に、植物の話、匂いや触った感じについてへと話が拡大していったが、五官を大切に育んでいるからこそ、感じることの出来る感覚を共有できることの喜びを感じ、更に、人間の感覚の重みを感じた一時だった。
更に、植物の話、匂いや触った感じについてへと話が拡大していったが、五官を大切に育んでいるからこそ、感じることの出来る感覚を共有できることの喜びを感じ、更に、人間の感覚の重みを感じた一時だった。
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投稿者: SuperVisor
ここ数日、小さい秋がやってきている。17時過ぎに陽が傾き始めると、ツユムシの「ズィズィジジジ」とかクサキリの「ジィーッジィーッ」という鳴き声が夜半中聴こえる。もう、そこまで、秋がやってきているのである。
秋と言えば、新型インフルエンザが猛威を振るうと予測されている。関西地方でインフルエンザが流行した際に第一波と言われ、世界的に言われているパンデミィックを経験したかのように扱われているが、実際にはまだ、日本社会においては経験していない。これからが正念場と言えよう。そろそろ、マスクや消毒用のジェル、水を備蓄しようと考えている。
秋と言えば、新型インフルエンザが猛威を振るうと予測されている。関西地方でインフルエンザが流行した際に第一波と言われ、世界的に言われているパンデミィックを経験したかのように扱われているが、実際にはまだ、日本社会においては経験していない。これからが正念場と言えよう。そろそろ、マスクや消毒用のジェル、水を備蓄しようと考えている。
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投稿者: SuperVisor
今日16時過ぎに来客があった。9月から新任地へ赴く前に、中心暗点の、しばらくトレーニングした成果をみてほしいとのことであった。この人は医師であるが、自分自身が黄斑部の病気になったときに、同僚から「もう治らないから・・・」と冷たく言われ、ショックだったようだ。
視野について丁寧に説明した。暗点の位置、それに対して暗点と距離との関係や、どういうトレーニングをすると見やすくなるのか等1時間半くらい、チャートや図を書きながら示した。日常生活では実験を数限りなくしているようだが、なかなか、保有している視野のどの部分を用いたら効率がよいのかが見いだしにくいようだ。
視野の意識化ということを、さんざん言ってきているけれど、自分自身の感度の良い周辺視野を意識化することは意外に難しいことだと思う。一つには脳自体が、見えない、見えにくい視野の部分を補っているからである。補うと言っても、実体はないわけだから、本当はない。だから、とりあえずつじつま合わせをしているのだけれど・・・。
一番に気づけるのは、アムスラーチャートを用いて、線のゆがみ等を意識してみることなのだが、東京LVSTの皆さんの中でも十分に提示していないかも知れない。見えている、それもクリアーに見えているという実感が伴っていてもきちんと評価すると、見えている部分の中にも様々なレベルがあるわけだ。
ある種、トレーニングは自らを識ることに尽きると言っても過言ではない。「汝自身を知れ」と古のギリシャの哲人が名言を今に伝えているけれど、視野の意識化や自分自身の眼をうまく活用するには、まずは、あるがままの見え方を識ることに尽きると言える。
さて、今日であった黄斑変性の男性は、右目の真ん中より右下に暗点がある。自分自身で日々実験する中で、その位置を使っていることを納得しつつも、上側や鼻側にもいい箇所があってどのように使えばいいのかがわかりにくいようだった。あせらず、実験する中で「わかることと」同時に保有している箇所を色々とわかるからこそ、もし緊急のことがあっても、その時点で活用できることがわかりますよとの説明に、納得していただいた。
まだまだ、視野のことについて識らない人が多いなぁと感じた次第である。
視野について丁寧に説明した。暗点の位置、それに対して暗点と距離との関係や、どういうトレーニングをすると見やすくなるのか等1時間半くらい、チャートや図を書きながら示した。日常生活では実験を数限りなくしているようだが、なかなか、保有している視野のどの部分を用いたら効率がよいのかが見いだしにくいようだ。
視野の意識化ということを、さんざん言ってきているけれど、自分自身の感度の良い周辺視野を意識化することは意外に難しいことだと思う。一つには脳自体が、見えない、見えにくい視野の部分を補っているからである。補うと言っても、実体はないわけだから、本当はない。だから、とりあえずつじつま合わせをしているのだけれど・・・。
一番に気づけるのは、アムスラーチャートを用いて、線のゆがみ等を意識してみることなのだが、東京LVSTの皆さんの中でも十分に提示していないかも知れない。見えている、それもクリアーに見えているという実感が伴っていてもきちんと評価すると、見えている部分の中にも様々なレベルがあるわけだ。
ある種、トレーニングは自らを識ることに尽きると言っても過言ではない。「汝自身を知れ」と古のギリシャの哲人が名言を今に伝えているけれど、視野の意識化や自分自身の眼をうまく活用するには、まずは、あるがままの見え方を識ることに尽きると言える。
さて、今日であった黄斑変性の男性は、右目の真ん中より右下に暗点がある。自分自身で日々実験する中で、その位置を使っていることを納得しつつも、上側や鼻側にもいい箇所があってどのように使えばいいのかがわかりにくいようだった。あせらず、実験する中で「わかることと」同時に保有している箇所を色々とわかるからこそ、もし緊急のことがあっても、その時点で活用できることがわかりますよとの説明に、納得していただいた。
まだまだ、視野のことについて識らない人が多いなぁと感じた次第である。
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投稿者: SuperVisor
ベランダにタオルケットを干し、室内に入った。ベランダの白い床からの反射光のせいだろう。室内に入り際に暗いなぁと感じる。今日の日差しから言うと4~5万Luxはあっただろう。人間の眼は10のマイナス2乗からから10の4乗Luxまでがその守備範囲だ。かって、これをダイナミックレンジと定義したのだけれど、ロービジョンでは、10から10の3乗Luxくらいの範囲が「見やすい」レベルにある。暗すぎても明るすぎても見えにくいのである。日常生活環境を整えるとしたら、適切な人工照明が必要な所以である。
一般的に夏の日射しが一番強い。従って、普通の人でも太陽の日射しを眩しく感じるわけだ。緑に囲まれた土のある環境では眩しさを感じにくいが、反射光が多い都市部の環境では、眩しく感じるのは不思議でない。アスファルトからの、白線からの、ビルのガラスからの反射光はことのほか眩しさを感じさせる。
活字を読むためには、100Lux位から2000Lux位あれば十分であるが、ロービジョンの人の中には、1000Lux程度を越えると眩しいという人もいる。
外の環境は、気候に左右されることが多いので、瞬間瞬間の日射しによって趣が変わる。そのことを、十分承知した上で、適切な対策を練る必要があろう。
ここ数日、本当に天気が良いので、そんなことを考えていた。
一般的に夏の日射しが一番強い。従って、普通の人でも太陽の日射しを眩しく感じるわけだ。緑に囲まれた土のある環境では眩しさを感じにくいが、反射光が多い都市部の環境では、眩しく感じるのは不思議でない。アスファルトからの、白線からの、ビルのガラスからの反射光はことのほか眩しさを感じさせる。
活字を読むためには、100Lux位から2000Lux位あれば十分であるが、ロービジョンの人の中には、1000Lux程度を越えると眩しいという人もいる。
外の環境は、気候に左右されることが多いので、瞬間瞬間の日射しによって趣が変わる。そのことを、十分承知した上で、適切な対策を練る必要があろう。
ここ数日、本当に天気が良いので、そんなことを考えていた。
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投稿者: SuperVisor
毎年の約束事のように夏を盛り上げてくれる生き物に蝉がいる。子どもの頃、蝉の脱皮を見たことはなかったが、長じて実家の縁側のカーテンにつかまって脱皮して成虫になる場面に幾度か遭遇したことがある。背中側の殻の中心部分に亀裂が入り徐々に広がっていく。完全に殻を破って出てくるまでの間、乳白色をしている。その乳白色の蝉を見、やがて、羽が透き通っていく様に神秘的な美しさを感じたものだ。同時に殻を破ることの難しさや困難さとゆったりとした時間の中でとぎれることのない成虫への転換、諦めないことの素晴らしさを感じたものだ。かっては、日常生活の中で生き物たちの日常が身近にあった。
関東に来て2年目の夏を迎える。ミンミンゼミが多い。「ミーンミンミーンミンミー」と鳴いている。日中大合唱ともなろなら、暑さを一段と感じるのは気のせいだろうか?後、アブラゼミは「ジィジィジィジー」、クマゼミは「シュジュクジュクジュク」と聴こえる。少し気温が下がってくるとツクツクボウシが鳴き始める。ツクツクボウシが出てくると晩夏を感じたりもする。「ツクツクボウシ」聴こえず「チュクチュクホーシ」と聞こえるのだが・・・。そして、ヒグラシ。「ヒューヒューキュルキュルキュル」と聴こえるのだが、さてさて、擬音化するのは難しい。ここ数日鳴き始めている。
これらの蝉は、ぼくの生活環境の中に自然といる。そのこともまた不思議な気がする。
で、ここでまた思うのだが、蝉の見ている世界はどんな世界だろう?それぞれの生物の進化の中で眼は進化してきているわけだが、色覚を有する動物は意外と少ないとされている。犬は白黒のモノトーンの世界で生きている。従って、盲導犬は信号機の認識は視覚ではできない。むしろ、交差点の縁を教えることでピタッと止まれるわけだ。
また、鳥類の猛禽類は、中心窩が二つあり天空で獲物を探しているときと近くで獲物に襲いかかるときとで使い分けていると言う。
ぼくたちは当たり前のように見るという行為を日々繰り返す。その当たり前だが見られることを十分に理解すると、何かの原因で「見えにくく」なったときに、それをカバーする方法を見いだせるのだと思う。つまり、機能的に弱くなったであろう視覚の、どの機能かを見いだしたときに傾向と対策が練られるのである。
関東に来て2年目の夏を迎える。ミンミンゼミが多い。「ミーンミンミーンミンミー」と鳴いている。日中大合唱ともなろなら、暑さを一段と感じるのは気のせいだろうか?後、アブラゼミは「ジィジィジィジー」、クマゼミは「シュジュクジュクジュク」と聴こえる。少し気温が下がってくるとツクツクボウシが鳴き始める。ツクツクボウシが出てくると晩夏を感じたりもする。「ツクツクボウシ」聴こえず「チュクチュクホーシ」と聞こえるのだが・・・。そして、ヒグラシ。「ヒューヒューキュルキュルキュル」と聴こえるのだが、さてさて、擬音化するのは難しい。ここ数日鳴き始めている。
これらの蝉は、ぼくの生活環境の中に自然といる。そのこともまた不思議な気がする。
で、ここでまた思うのだが、蝉の見ている世界はどんな世界だろう?それぞれの生物の進化の中で眼は進化してきているわけだが、色覚を有する動物は意外と少ないとされている。犬は白黒のモノトーンの世界で生きている。従って、盲導犬は信号機の認識は視覚ではできない。むしろ、交差点の縁を教えることでピタッと止まれるわけだ。
また、鳥類の猛禽類は、中心窩が二つあり天空で獲物を探しているときと近くで獲物に襲いかかるときとで使い分けていると言う。
ぼくたちは当たり前のように見るという行為を日々繰り返す。その当たり前だが見られることを十分に理解すると、何かの原因で「見えにくく」なったときに、それをカバーする方法を見いだせるのだと思う。つまり、機能的に弱くなったであろう視覚の、どの機能かを見いだしたときに傾向と対策が練られるのである。
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投稿者: SuperVisor
お盆に入った13日に老健施設に勤務している人から久しぶりに電話があった。近況を話しながら、おもしろい話をしてくれた。毎年、盆になると、「お客様がきてるのでお茶を出してあげて」と利用者さんが言うそうだ。実際に人はいないのだが、利用者さんには見えているらしい。
青年期まで京都で過ごしたぼくは、六波羅密寺の「地獄絵図」をこの時期になると思い出す。地獄絵図が幼い頃から脳裏から離れないのである。もともとお釈迦様のお弟子さんで目連という人がいた。目連にとっては、すばらしいお母さんであったには違いなく、母親が浄土に行っていると思っていた。その目連がお釈迦様に聴いたところ、あろうことにか餓鬼道に落ち苦しんでいる姿を見せられた。お釈迦様は、あなたにとって良いお母さんであったかも知れないが、他の人から見ればそうではなかったことを話され、供養する方法を教えられ救われたという物語からお盆が始まったとのこと。
その老健施設の人の話を聴きながら、利用者さんには「見えている」世界があるのかな等と思った。
五官の眼で見えないものを見るような場合の言葉として「心眼を開く」「千里眼」「透視」等という言葉がある。
心眼とは、「ものごとの本質を見抜く眼」のことを指すのだが、落語の演目に「心眼」がある。直接今の話題とは関係ないけれど、こんな話だ。
あん摩師が、女房の勧めで仏様に願掛けをして開眼した。茶屋で芸者と出会い夫婦約束をすると女房がやってきて胸を締め付けられる。「苦しい」といった途端目が覚める。女房から「怖い夢でも見たの?」と言われ「信心はやめた。盲人というものは妙なもんだ。眠っているうちだけよく見える」。話はもう少しだけそれるが、中途視覚障害者の夢を聴き取りしたことがあるが、このあん摩師さんと同じようなことを言う人が多かった。
前にも少しだけ書いたが、視覚系には複数のルートがある。いま我々が視覚と言っているのは、眼から網膜を経、視神経を通り後頭葉まで至るルートであって、全てではない。
それゆえに、意識化されないけれど働いている系がある。高次脳機能障害で視覚的なダメージを受けた人たちの中で他の視覚系や認知系のルートがあるだろうことを示してくれる人たちが存在する。もちろん、普通なら意識化されていないから、本人自身も自覚がない。けれども、「見えない」けれど動いているものについて歩ける等という現象が起こる。こういう人は、歩行訓練なんていらないのである。
また文字が全く読めなくなった人たちに、パソコン用のEye Movement訓練の課題に慣れてもらい、その後、筆順ソフトを用いて、眼で追視してもらう。場合によっては、動きにあわせて、なぞってもらうと読めるようになる。それを続けていく内に我々が視覚と呼んでいる系の若干の回復が起こる。見えないとは言わなくなるのだ。
さてさて、老健施設の利用者さんは、どんな視覚系でものを見ているのかなどと週末は考えてみることにしよう。
青年期まで京都で過ごしたぼくは、六波羅密寺の「地獄絵図」をこの時期になると思い出す。地獄絵図が幼い頃から脳裏から離れないのである。もともとお釈迦様のお弟子さんで目連という人がいた。目連にとっては、すばらしいお母さんであったには違いなく、母親が浄土に行っていると思っていた。その目連がお釈迦様に聴いたところ、あろうことにか餓鬼道に落ち苦しんでいる姿を見せられた。お釈迦様は、あなたにとって良いお母さんであったかも知れないが、他の人から見ればそうではなかったことを話され、供養する方法を教えられ救われたという物語からお盆が始まったとのこと。
その老健施設の人の話を聴きながら、利用者さんには「見えている」世界があるのかな等と思った。
五官の眼で見えないものを見るような場合の言葉として「心眼を開く」「千里眼」「透視」等という言葉がある。
心眼とは、「ものごとの本質を見抜く眼」のことを指すのだが、落語の演目に「心眼」がある。直接今の話題とは関係ないけれど、こんな話だ。
あん摩師が、女房の勧めで仏様に願掛けをして開眼した。茶屋で芸者と出会い夫婦約束をすると女房がやってきて胸を締め付けられる。「苦しい」といった途端目が覚める。女房から「怖い夢でも見たの?」と言われ「信心はやめた。盲人というものは妙なもんだ。眠っているうちだけよく見える」。話はもう少しだけそれるが、中途視覚障害者の夢を聴き取りしたことがあるが、このあん摩師さんと同じようなことを言う人が多かった。
前にも少しだけ書いたが、視覚系には複数のルートがある。いま我々が視覚と言っているのは、眼から網膜を経、視神経を通り後頭葉まで至るルートであって、全てではない。
それゆえに、意識化されないけれど働いている系がある。高次脳機能障害で視覚的なダメージを受けた人たちの中で他の視覚系や認知系のルートがあるだろうことを示してくれる人たちが存在する。もちろん、普通なら意識化されていないから、本人自身も自覚がない。けれども、「見えない」けれど動いているものについて歩ける等という現象が起こる。こういう人は、歩行訓練なんていらないのである。
また文字が全く読めなくなった人たちに、パソコン用のEye Movement訓練の課題に慣れてもらい、その後、筆順ソフトを用いて、眼で追視してもらう。場合によっては、動きにあわせて、なぞってもらうと読めるようになる。それを続けていく内に我々が視覚と呼んでいる系の若干の回復が起こる。見えないとは言わなくなるのだ。
さてさて、老健施設の利用者さんは、どんな視覚系でものを見ているのかなどと週末は考えてみることにしよう。
久しぶりの快晴。眩しい日射しに思わず眼を細める。なんと、近視がまた進んでしまったのか、細めた方が見え方がいい。眼をぱっちりあけて日陰から視対象物を見ても、細めた方がシャープでクリアな印象。ただでさえ、象の眼のようにつぶらな眼が一層細く小さくなる。この年で、近視が進んでいるというのも、妙な気分ではある。
そう言えば、眩しさと明るさとの違いを考えた時期があった。遮光眼鏡という低波長をカットして、後は100%通す眼鏡がある。サングラスだと全体の波長を50%落として全体的に暗くなるのだけれど、遮光眼鏡の方は、明るくクリアだ。輪郭の縁が明確になる。しかし、長い期間サングラスをかけていて、遮光眼鏡をかけると明るくシャープに見えることが、眩しいと感じることがある。
光に対する感受性(比視感度)に関わる問題ではあるが、眼そのものが様々な状況に順応することを考えると、ある種の慣れについて十分に配慮する必要性があると思われる。ポジティブな側面とネガティブな側面とを明確にすることも必要。
見えることを、そう感じていることを当たり前のように感じることは致し方ないが、実際に試してみると違うことが多い。慣れた条件だと、慣れたものが一番いいように感じてしまう。しかし、本当だろうか?
「眩しい」と表現したとき、「明るい」と表現したときの違いについて、明確にする必要を感じる所以である。「明るい」というのは、眼的な意味から考えると、不快感はなく、普段見ているよりも、細かい点まで見える状態を指すように思われる。輪郭の縁や、そのもの自体が違和感なくはっきりととらえられる状態を指すと考えている。
一方、「眩しい」というのは、不快感や違和感があって、輪郭の縁やそのもの自体が、白けたり、見えにくい状態を指していると思われる。更に、個体差による感覚的な要素が
加わることで、眩しさそのものがわかりづらくなっているのではないか。そんなことを思うのだ。
偏光眼鏡をかけると、水面の反射光の「ギラッ」とした光のダマを無くしてくれる。遮光眼鏡だと、「ギラッ」とした感じは和らげられるものの、星雲図の中の星団の玉のような「チカッ」とした感覚が残るのである。
肉体の維持という点から考えると、快的なものを取り込み、不快的なものは排除するのが生理的な現象であるわけだから、「眩しさ」については、排除する側の極に位置すると考えていいのかも知れない。
しかしながら、一方で、肉体的な慣れというものも存在している。どんな悪条件の中でも適応しようとする身体の智慧がある。
更に気象という面で考えると、夏から秋にかけての「眩しさ」と冬から春、そして夏に
かけての「眩しさ」の本質は違う。地球と太陽との位置関係から来る光量の差によるものだが、一般的に夏から秋に向けては「眩しさ」は減じていく。
地球環境と言うことから考えると、緯度の高い方が「眩しさ」を感じることが多い。
従って、「眩しさ」や「明るさ」を考えるときには、複数の側面から考えなければならないし、簡単に結論づけをすることは戒めなければならないと思うのである。
そう言えば、眩しさと明るさとの違いを考えた時期があった。遮光眼鏡という低波長をカットして、後は100%通す眼鏡がある。サングラスだと全体の波長を50%落として全体的に暗くなるのだけれど、遮光眼鏡の方は、明るくクリアだ。輪郭の縁が明確になる。しかし、長い期間サングラスをかけていて、遮光眼鏡をかけると明るくシャープに見えることが、眩しいと感じることがある。
光に対する感受性(比視感度)に関わる問題ではあるが、眼そのものが様々な状況に順応することを考えると、ある種の慣れについて十分に配慮する必要性があると思われる。ポジティブな側面とネガティブな側面とを明確にすることも必要。
見えることを、そう感じていることを当たり前のように感じることは致し方ないが、実際に試してみると違うことが多い。慣れた条件だと、慣れたものが一番いいように感じてしまう。しかし、本当だろうか?
「眩しい」と表現したとき、「明るい」と表現したときの違いについて、明確にする必要を感じる所以である。「明るい」というのは、眼的な意味から考えると、不快感はなく、普段見ているよりも、細かい点まで見える状態を指すように思われる。輪郭の縁や、そのもの自体が違和感なくはっきりととらえられる状態を指すと考えている。
一方、「眩しい」というのは、不快感や違和感があって、輪郭の縁やそのもの自体が、白けたり、見えにくい状態を指していると思われる。更に、個体差による感覚的な要素が
加わることで、眩しさそのものがわかりづらくなっているのではないか。そんなことを思うのだ。
偏光眼鏡をかけると、水面の反射光の「ギラッ」とした光のダマを無くしてくれる。遮光眼鏡だと、「ギラッ」とした感じは和らげられるものの、星雲図の中の星団の玉のような「チカッ」とした感覚が残るのである。
肉体の維持という点から考えると、快的なものを取り込み、不快的なものは排除するのが生理的な現象であるわけだから、「眩しさ」については、排除する側の極に位置すると考えていいのかも知れない。
しかしながら、一方で、肉体的な慣れというものも存在している。どんな悪条件の中でも適応しようとする身体の智慧がある。
更に気象という面で考えると、夏から秋にかけての「眩しさ」と冬から春、そして夏に
かけての「眩しさ」の本質は違う。地球と太陽との位置関係から来る光量の差によるものだが、一般的に夏から秋に向けては「眩しさ」は減じていく。
地球環境と言うことから考えると、緯度の高い方が「眩しさ」を感じることが多い。
従って、「眩しさ」や「明るさ」を考えるときには、複数の側面から考えなければならないし、簡単に結論づけをすることは戒めなければならないと思うのである。
カテゴリー: 総合
投稿者: SuperVisor
ゆらゆらと揺れている。横に、横に、左右にリズム良く、アンダンテ?のように。地震の揺れのほんの数分前に、布団の中でまどろんでいた状態から覚醒する状態へと移行する過程の中での出来事だった。2日前の夜8時前後の揺れはわからなかった。大分行きのチケット購入のためにコンビニに振込みに行った後、出していたクリーニングを取りに、店の近くを自転車で走っていた。木の葉が揺れ、赤提灯が揺れているなぁと思いつつも、350mlのビール缶を飲んでいたこともあり単に酔っているからかなぁと感じていた。クリーニング屋に入った途端、「地震がありましたね」と言われ、「自分が揺れていたんだと思っていました。」等と話した。
静止した状態で静止しているものを見たり、静止した状態で動いているものを見たりするのと、動いている状態で静止しているものを見たり、動いている状態で動いているものを見たりするのとは、明らかに感覚が違うことに改めて気が付いた。こちら側が動きを伴っているときには、相当なエネルギーの負荷がかけられないと気が付きにくい。一方、今朝の静止した状態では、わずかな刺激で感じとるのである。
求心性視野狭窄の場合、静止した状態で静止物をみたり、動きのあるものを見る場合は、比較的落ち着いた状態の中で視対象物をとらえることが出来る。その際には、手元よりも距離が離れれば離れるほどとらえやすい。動いているもの、例えば球技のようなスポーツでは、自分から離れていくボールの位置や相手から繰り出されるボールの位置がとらえられると推測から動くことも可能となる。視野の意識化が進んでいると、ボールが遠く
にから手元に来る見え方の違い、ボールの早さを勘案することで自分自身の動きをある程度調御することが出来る。ボールがふっと消える位置がわかれば、後は眼球運動をして、対象となるボールを逃がさないことである。
一方、自分から離れていくボールについては、どういう軌跡を描くかがわかりにくいが、眼球運動で最初は大きく動かして見、かなり離れただろう位置に行ったと感じたときには、小さく動かすことで発見することが出来る。
言葉にすると、ざっとこんなものなのだが、速いボールを追視することはなかなか難しい。では、どうするのか?幼稚園児や小学校低学年のサッカーを見たことのある経験はあるだろうか?子どもたちの動きが割合緩やかで練習に適している。子どもたちが機敏ではないことで追視しやすい。
中心暗点の場合は、遠くにボールがあれば、暗点が大きくなるのでどこにあるのか、よりわかりづらい。近づいてくると「ふっと」突然現れてくる。現れたときにはすでに身体が反応するには時既に遅く、悔しい思いをしてしまう。では、球技は出来ないのだろうか?否である。暗点は大きくなっても、「大きな物体があるなぁ」と感じることは出来る。人は存外発見しやすい。ボールの動きが、つまり、手元からどの方向へと向かっていくのかがわかれば、大体押さえておくべき位置がわかる。例えば、テニスの壁打ちのような課題を繰り返す中で、その感覚をつかむことも可能である。
あきらめることは簡単ではあるが、自分の見え方と相談しつつ、工夫をすることは十分に可能であると言いたい。
それこそ、多くのロービジョンの方とスポーツについて議論してきた。子どもたちの場合、実際に色々と実験してくれて報告してくれる。野球やソフトボールの場合、「ボールが空と一体となってわからない」テニスのような場合、「ふっとボールが消えるんですよ。」とか「ふっと現れるんですよ」等と語ってくれた。
全てを完璧に出来なくても、一緒に楽しむことができることもまた、大切なことであるし、例えば、ボーリングのように方向性が決まっていて、自分の眼で正面がこの位置というのがわかれば、練習しさえすればそれなりのスコアも取れる。
つまり、視野を意識化することは、生活全体にその影響を及ぼすと考えてもらえたらと思うのである。
静止した状態で静止しているものを見たり、静止した状態で動いているものを見たりするのと、動いている状態で静止しているものを見たり、動いている状態で動いているものを見たりするのとは、明らかに感覚が違うことに改めて気が付いた。こちら側が動きを伴っているときには、相当なエネルギーの負荷がかけられないと気が付きにくい。一方、今朝の静止した状態では、わずかな刺激で感じとるのである。
求心性視野狭窄の場合、静止した状態で静止物をみたり、動きのあるものを見る場合は、比較的落ち着いた状態の中で視対象物をとらえることが出来る。その際には、手元よりも距離が離れれば離れるほどとらえやすい。動いているもの、例えば球技のようなスポーツでは、自分から離れていくボールの位置や相手から繰り出されるボールの位置がとらえられると推測から動くことも可能となる。視野の意識化が進んでいると、ボールが遠く
にから手元に来る見え方の違い、ボールの早さを勘案することで自分自身の動きをある程度調御することが出来る。ボールがふっと消える位置がわかれば、後は眼球運動をして、対象となるボールを逃がさないことである。
一方、自分から離れていくボールについては、どういう軌跡を描くかがわかりにくいが、眼球運動で最初は大きく動かして見、かなり離れただろう位置に行ったと感じたときには、小さく動かすことで発見することが出来る。
言葉にすると、ざっとこんなものなのだが、速いボールを追視することはなかなか難しい。では、どうするのか?幼稚園児や小学校低学年のサッカーを見たことのある経験はあるだろうか?子どもたちの動きが割合緩やかで練習に適している。子どもたちが機敏ではないことで追視しやすい。
中心暗点の場合は、遠くにボールがあれば、暗点が大きくなるのでどこにあるのか、よりわかりづらい。近づいてくると「ふっと」突然現れてくる。現れたときにはすでに身体が反応するには時既に遅く、悔しい思いをしてしまう。では、球技は出来ないのだろうか?否である。暗点は大きくなっても、「大きな物体があるなぁ」と感じることは出来る。人は存外発見しやすい。ボールの動きが、つまり、手元からどの方向へと向かっていくのかがわかれば、大体押さえておくべき位置がわかる。例えば、テニスの壁打ちのような課題を繰り返す中で、その感覚をつかむことも可能である。
あきらめることは簡単ではあるが、自分の見え方と相談しつつ、工夫をすることは十分に可能であると言いたい。
それこそ、多くのロービジョンの方とスポーツについて議論してきた。子どもたちの場合、実際に色々と実験してくれて報告してくれる。野球やソフトボールの場合、「ボールが空と一体となってわからない」テニスのような場合、「ふっとボールが消えるんですよ。」とか「ふっと現れるんですよ」等と語ってくれた。
全てを完璧に出来なくても、一緒に楽しむことができることもまた、大切なことであるし、例えば、ボーリングのように方向性が決まっていて、自分の眼で正面がこの位置というのがわかれば、練習しさえすればそれなりのスコアも取れる。
つまり、視野を意識化することは、生活全体にその影響を及ぼすと考えてもらえたらと思うのである。
雨音で目が覚めた。静かに降る雨も、激しく降る雨も音の変化が楽しめる。朝、窓から差し込む陽があると、部屋中に光が溢れて、家具や天井等の一つ一つが鮮明に見える。これが薄曇りだと、どちらかというと、自然な感じで、しかし夜の蛍光灯を消した後のような輪郭が不鮮明なものとはならないのがいい。至ってシャープな感じで、陰影も適度で心地よい。間接照明を上手に用いると、このシャープでありながら自然な彩りにこころが落ち着くのと似ているかも知れない。
朝、鳥の鳴き声や風音なんかで目覚めるのも、雨音で目覚めるのも自然なリズムに違いなく、その響きを伴って、ぼんやりとした意識から徐々にはっきりとした意識へと転換していくほんの1分ほどの時間がとても楽しい時間でもある。
目を覚ましたときに、強い光が部屋中に溢れているのも気持ち的には悪くはない。悪くないというのは、積極的にいい分けでもないからだ。ものの形を形として見るためには、輪郭や「肌理」がはっきりとしていることが重要である。難しく言うと「肌理の勾配」とか「アフォーダンス」などと表現するのだが、要はメリハリがついていることが大切なのである。J.Jギブソンという認知心理学者がいる。日本人では、佐々木正人という学者が、「アフォーダンス」の第一人者かなぁ。
さて、ものの気配というのも聴覚的な情報や視覚的な、それもどちらかというと周辺視野からもたらされる情報というのがとても大切であると考えている。ものを細かく分析できる力を視力と呼び慣わしているが、これだけが重要な訳ではない。視野の、周辺からもたらされる情報は、ざっくりと大まかな、しかし、ある程度の形態を理解する上でなくてはならないものである。その上で、知覚するという別の要素、脳の認知機能が明確な形を見せる訳である。
ぼんやりとした目覚めからほんの数分で意識が覚醒し忙しく分析が始まることのシステムに感動するとともに、逆に余韻を楽しむことはそれ以上に重要なことだとも思うのである。
朝、鳥の鳴き声や風音なんかで目覚めるのも、雨音で目覚めるのも自然なリズムに違いなく、その響きを伴って、ぼんやりとした意識から徐々にはっきりとした意識へと転換していくほんの1分ほどの時間がとても楽しい時間でもある。
目を覚ましたときに、強い光が部屋中に溢れているのも気持ち的には悪くはない。悪くないというのは、積極的にいい分けでもないからだ。ものの形を形として見るためには、輪郭や「肌理」がはっきりとしていることが重要である。難しく言うと「肌理の勾配」とか「アフォーダンス」などと表現するのだが、要はメリハリがついていることが大切なのである。J.Jギブソンという認知心理学者がいる。日本人では、佐々木正人という学者が、「アフォーダンス」の第一人者かなぁ。
さて、ものの気配というのも聴覚的な情報や視覚的な、それもどちらかというと周辺視野からもたらされる情報というのがとても大切であると考えている。ものを細かく分析できる力を視力と呼び慣わしているが、これだけが重要な訳ではない。視野の、周辺からもたらされる情報は、ざっくりと大まかな、しかし、ある程度の形態を理解する上でなくてはならないものである。その上で、知覚するという別の要素、脳の認知機能が明確な形を見せる訳である。
ぼんやりとした目覚めからほんの数分で意識が覚醒し忙しく分析が始まることのシステムに感動するとともに、逆に余韻を楽しむことはそれ以上に重要なことだとも思うのである。
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投稿者: SuperVisor
今日の読売新聞の社会面に「ハイブリット車接近中?」の見出しで、メロディ音とか疑似エンジン音をつける方向で国土交通省の対策検討委員会が視覚障害者の体験会を開いたとの記事。NHKで昨晩、同じ内容で金沢真理さんと中野泰志さんがインタビューされていた。年末までに一定の基準を示すとのことだが、交通環境全体の中での検討を期待したい。
エンジン音の工夫をしても、まず交差点の双方向の車を優先させて、歩行者をスクランブル交差点のように渡すような現状から考えると、渡りたい方向の音源定位が出来ないことの方がよほど危険極まりないと考える。
あるいは歩道上を歩いていて、ドライブウエイの方に引っ張られて車道にフラフラとでてしまったときに、ハイブリッド車や電気自動車が来ていたとしたらどうするのか?
北国の積雪が多い地域では、ただでさえ音が雪に吸収されることを考えたときに、冬道の安全対策をどうするのか?
GPSを音声で確認しながら歩いている視覚障害者が、ふとした音を聴き逃したときの安全は?等と考えるのは杞憂と言うべきなのか?
かって、横断歩道のゼブララインは階段状になっていた。今のヨーロピアンタイプに変えるときに、進行方向の直線がなくなると困らないかと問いかけたことがある。ロービジョン児・者の多くはさほど困らないんじゃないの程度の反応だったが、実際に施行された途端に、何とかならないのかと言われた。
設計者たちは、囲われた枠の中に水がたまり危険だからとの説明で、無くすことでスリップ事故が減るからとの理由だった。しかし、なんら変わっていないように思うのは、ぼくだけだろうか?
サウンドスケープ(音の風景)という手法がある。日常的な音風景として、意識したらそこに音があるのが理想なのだろう。日常生活で、様々な家具に囲まれて生活するぼくたちが、必要なときにそれらを意識するように配置されたらどうなるのだろうか?
スエーデンやデンマーク等で音響信号を聴いたことがある。無機的な音であったが、24時間鳴り続けていた。いま、日本では20時から7時くらいまで音響信号がならない。特に住宅街では顕著である。このこと一つとっても、本当に必要な音環境をどう創るのかが問われている。
バリアフリーとかユニバーサルデザインと言われて久しい。ならば、もっともっときちんと議論を尽くした上で、大局的に取り組む必要があるのだと、記事を読みながら思った。
エンジン音の工夫をしても、まず交差点の双方向の車を優先させて、歩行者をスクランブル交差点のように渡すような現状から考えると、渡りたい方向の音源定位が出来ないことの方がよほど危険極まりないと考える。
あるいは歩道上を歩いていて、ドライブウエイの方に引っ張られて車道にフラフラとでてしまったときに、ハイブリッド車や電気自動車が来ていたとしたらどうするのか?
北国の積雪が多い地域では、ただでさえ音が雪に吸収されることを考えたときに、冬道の安全対策をどうするのか?
GPSを音声で確認しながら歩いている視覚障害者が、ふとした音を聴き逃したときの安全は?等と考えるのは杞憂と言うべきなのか?
かって、横断歩道のゼブララインは階段状になっていた。今のヨーロピアンタイプに変えるときに、進行方向の直線がなくなると困らないかと問いかけたことがある。ロービジョン児・者の多くはさほど困らないんじゃないの程度の反応だったが、実際に施行された途端に、何とかならないのかと言われた。
設計者たちは、囲われた枠の中に水がたまり危険だからとの説明で、無くすことでスリップ事故が減るからとの理由だった。しかし、なんら変わっていないように思うのは、ぼくだけだろうか?
サウンドスケープ(音の風景)という手法がある。日常的な音風景として、意識したらそこに音があるのが理想なのだろう。日常生活で、様々な家具に囲まれて生活するぼくたちが、必要なときにそれらを意識するように配置されたらどうなるのだろうか?
スエーデンやデンマーク等で音響信号を聴いたことがある。無機的な音であったが、24時間鳴り続けていた。いま、日本では20時から7時くらいまで音響信号がならない。特に住宅街では顕著である。このこと一つとっても、本当に必要な音環境をどう創るのかが問われている。
バリアフリーとかユニバーサルデザインと言われて久しい。ならば、もっともっときちんと議論を尽くした上で、大局的に取り組む必要があるのだと、記事を読みながら思った。
カテゴリー: 総合
投稿者: SuperVisor
昨日、駅の表示サイン(ピクトグラム)や照明等を設計する人たちや研究者に出会った。かってスエーデンのイエテボリの学会で「運命的な?」出会いをし、6年くらい前の熊本の学会で再会、久しぶりに出会うこととなった。曰く、「数日前からロービジョン児・者の見え方について上司と話していたんですよ・・・」 確かに今まで出会う度に、なにかしら関わってきたのも事実で、おもしろいと思った。
改めて、東京駅の表示がすっきりしてきたのも、ちゃんとした計画に基づいていることや、しかし、視覚障害者の見え方を本当には理解できていないことも改めて感じた。朝のラッシュ時に、単眼鏡を出して確認出来るスポットが考えられていない。拡大鏡なんかだせない。人の導線上の動きをコントロールするような工夫もあり得ると思うのだけど、納得のいく説明じゃなかった。
内部照明も、蛍光管からLEDに変化し、そのための色彩の使い方も色々工夫されている。系統的な誘導のためのデザインも考えられているのだが、既存の路線や駅の改修は思いの外難しいと思う。
いままで、関わってきた駅なんかは、新しく創るものだったので、色々と意見も言えたけれど、既存のものを活かしながらと言う制約の中で何かをするのは、細心の注意が必要なんだと設計者たちの話から感じた。
しばらくぶりに、交通機関も含めたデザインについても考えていこうと思った。
改めて、東京駅の表示がすっきりしてきたのも、ちゃんとした計画に基づいていることや、しかし、視覚障害者の見え方を本当には理解できていないことも改めて感じた。朝のラッシュ時に、単眼鏡を出して確認出来るスポットが考えられていない。拡大鏡なんかだせない。人の導線上の動きをコントロールするような工夫もあり得ると思うのだけど、納得のいく説明じゃなかった。
内部照明も、蛍光管からLEDに変化し、そのための色彩の使い方も色々工夫されている。系統的な誘導のためのデザインも考えられているのだが、既存の路線や駅の改修は思いの外難しいと思う。
いままで、関わってきた駅なんかは、新しく創るものだったので、色々と意見も言えたけれど、既存のものを活かしながらと言う制約の中で何かをするのは、細心の注意が必要なんだと設計者たちの話から感じた。
しばらくぶりに、交通機関も含めたデザインについても考えていこうと思った。
カテゴリー: 総合
投稿者: SuperVisor
夕方、久しぶりに大学に出かける。いまの時期だと構内は蝉時雨があふれ、廊下を歩くと自分の靴音がカツンカツンと反響するのがとても心地よい。大学独特の雰囲気は好きだが、コツコツと研究するのは苦手である。
ロービジョンケアの方では、視野の意識化のためのA4版シートの確定版を何とか創りあげたいと思っている。8月23日の大分でのワークショップで公開する予定。
このシートを Chin'san Visual awareness sheet と名付けてみようかな。sanと謙虚に自分を表現してみるのもいいかな。
ロービジョンケアの方では、視野の意識化のためのA4版シートの確定版を何とか創りあげたいと思っている。8月23日の大分でのワークショップで公開する予定。
このシートを Chin'san Visual awareness sheet と名付けてみようかな。sanと謙虚に自分を表現してみるのもいいかな。